2010年12月24日金曜日

全身フル回転

昨日社会人バスケットに混ざって来ました。
基本的に経験者の集まる中で、僕は最近大した運動もしていない上にバスケ部にいた訳でもないのでそれはそれは必死にやりましたが、何とか輪に入れてよかったです。


終わった後は足ももちろんしんどかったのですが、頭が疲れ切っていた事が印象的でした。
これは試合ではとにかく頭を使って行動しなければ話にならなかった為です。具体的に言うと、経験者が反復練習の中で習得してきた内容を、僕は見よう見まねでやっていくので「常に誰が何処にいるのか」という状況を把握し続けて自分の立ち位置を決める事を考え続けなければならない、という事です。
ちなみに少しボケっとするとたちまちパスも出せない・通路も塞ぐ邪魔者と化していました。


今日はクリスマス・イヴ
全国の彼氏さん、親御さん。予定通りに事を進める事と同時に、相手をよくよく観察して立ち回って下さいね。

2010年12月22日水曜日

入学者選抜はどう変わるの?

公立高校入学者選抜の方法が数年後に変わることになります。
県の教育委員会のHPでその議論の様子を知ることができます。

まだ具体的な改革案が出ているわけではありませんが、もっとも気になる点は
①前期、後期という二つの選抜を残すのか、それとも一本化するのか。
②内申点の扱いをどのようにするのか。
の2点でしょう。現在のところ、未だ白紙のようです。

個人的には受験から発表までの時間をもう少し早くして欲しいと思います。私立中学受験の素早い合否の発表に比べ、あまりにも遅すぎます。受験生の不安な期間を長くすべきではありません。
そして、受験日程をもう少し後にして、受験から入学までの期間を短くして欲しいとも思います。前期で合格すると入学まで2ヶ月も休みの状態になってしまいます。その間に学力が向上するとは思えません。

もう一点。県全体での模擬試験の必要性を訴える声もありました。以前はどの県でも普通にやっていたのですが、鳩山邦夫氏が文部大臣のとき、『業者テストを公立の学校でやって、偏差値による教育をするのは如何な・・・・』ということで一斉に廃止になった記憶があります。その結果、偏差値が無くなったかというとそうではなく、大手塾と民間業者の模試による偏差値が進路の基本になり、進路指導が中学校から塾へと事実上移行したのです。

2010年12月15日水曜日

悠々会のお知らせ。

明日(木)9時半より、今年最後の悠々会やります。都合のつく人は是非顔を出してください。

2010年12月14日火曜日

冠詞

先日行われた中間テストの間違いとして、「ピリオドやクエスチョン、冠詞ををつけなかった」部分で失点する子が見受けられました。


特に冠詞はこれからも付いて回る問題です。
「日本人は冠詞に弱いからねぇ~」とは僕の授業でよく口にするのですが、冠詞が付いていない、使い方が間違っているという事は英語の授業では日常茶飯事で、これは日本語に「a」「the」といった使い方がほとんど現れない事にあります。
具体的に例を見てみましょう。


問.次の英文の違いを述べなさい
1 : I met a friend at the station.
2 : I met my friend at the station.


どちらも駅で友達に会ったという文章です。
ここで文法的に何が違うのかというと、1は正しい文章で「友人の中の一人に会った」という意味になりますが、2は「私のたった一人の友人に会った」という意味になってしまう事です。
これは日本語という事もそうですが、兄や父といった単語を「my brother , my father」と端的に覚えていることもまた良くないのでしょうね。


この例等は学習が深まってから再度学べば良いのですが、初学の段階でそれに歯止めをかける事が出来ないのは講師として悔しい事ですね。

2010年12月13日月曜日

好進料としての高橋メソッド

時にして3週間個人的には大分ご無沙汰の更新になりました。
ストックを作らないものですから手が止まると駄目ですね。
何事ももそうですが、継続には


・勢いを作ること
・それを持続させること
・徐々に減速させて安定させること


です。要はモチベーション操作ですね。
今日は久々で頭も回っていませんのでここからは高橋メソッドでお送りしたいと思います。






高橋メソッドとは?













がでかい














が少ない














そんなプレゼン方法













一度授業で
使ってみたい














黒板消すの
大変だけど














使


みたい!














実際の資料を見たい人は

http://www.rubycolor.org/takahashi/xmldevday8/img0.html














でも卒論では
使っちゃだめだよ!














以上!
また次回!!













(・ω・)ノシ

2010年12月12日日曜日

中2模擬テスト

模擬テストの結果を生徒に返しながら、1人ずつ話をしました。

中2時点での合格可能性の判定はとんど当てになるものではありません。特に理社の中1時の復習が済んでいない段階では判定そのものの意味自体が問われそうです。

それでも、やはりその判定は生徒にとって、ある程度重みがあります。1年後または2年後に直面する現実にわずかでも触れたからです。受け取った生徒たちは皆神妙な顔で話を聞き、引き締まった表情でかえっていきました。

そういう意味で中2の模擬は意味があります。やってよかったと思います。一年後に彼らの結果が、現在の判定を大きく上回るといいなあ・・・。

2010年12月9日木曜日

センターまであと・・

”異邦人”を書いた作家アルベール・カミュが貧しかった少年時代振り返って、こんなことを書いていました。

『僕のうちが貧しいと気づいたのは、お金持ちの親戚の家に行ったとき、全てのものに”誰々の・・・”のように名前がついていることを知ったときだ。うちにはそんなものはひとつも無かった。』
(文章はカミュではなく私の創作です)

”誰々の・・・”は特別な人による特別な何かを予感させるものです。一般的な誰でも持っているありきたりのものとは違う何かです。

予備校系の出版物を中心に”誰々の英文法”とか”誰々の古文”といった出版物がたくさんあります。英語のY氏や国語のD氏はその代表格で、カリスマ的人気を誇っています。それは一般的な本とは異なる特別な何かを期待させるのでしょう。本よりもその作者に心酔する受験生すらいます。ちょっとどうかなとも思いますが、信じきって何かを学ぶのも良いのかもしれません。少なくともあれこれ迷って、いろいろな本に手を出すよりはずっとましです。

たとえそれがどのようなものでも

『ぼろぼろになれば それが 聖書 』(藤原新也・全東洋街道) 

まさに、至言。

センターまであとわずか、迷わずに、今やっていることを信じてがんばりましょう。

2010年12月7日火曜日

『分かること』と『できること』の間

三角関数を教えるとき、sin や cos の値を読み取る練習を必ずします。それは、アナログの時計を読む練習と同じで、少し練習すれば自由に読み取れるようになります。この部分の教え方は人によって大きく異なるところです。ぼくのやり方は、体を使ったちょっと変わった方法です。

ところがこうした練習を馬鹿にする人がそこそこ能力のある人にいます。少しやるとマスターしていないのに練習をしなくなります。『なんでしないの?』と聞くと『分かったから』とか『暗記すれば良いんでしょ?』とか言います。がっくりです。『分かっていない』のです。

時計の文字盤を読むのは『暗記しているから』ではありません。『見ているから』です。そこにあるものをそのように見ているだけなのです。勿論、時計を読む練習の初期には『分かる』ことも『暗記する』こともそれなりに必要ですが、あるレベルからは時計の文字盤を見て時間を『読み取っている』のです。ただ『見ている』だけなのです。なぜ、8時かと聞かれたら、それは定規で8cmのものを測りとるのと同様に『8時だから』というのが理由です。『見ている』ものは忘れることもなければ、間違えることもありません。それが『習熟する』ということです。

少し『賢い』人は『分かる』という部分(理屈)で満足する傾向があります。『分かったからもう良い』というわけです。『分かったのになんで更にやるの?』と思っている節があります。『理屈を理解すること』は『できる』ことの入り口でしかないのです。

2010年12月3日金曜日

受験シーズン到来

高校別進学希望者の調査結果が教育委員会のHPにでていました。

昨年は一過的に中3人口の多い年で、県全体で3000人程度公立高校受験者が増加していました。今年はその分減少し、旧平塚学区の受験者数の動向も落ち着いた感があります。

大磯が100人オーバーである以外は飛びぬけて希望者が多い高校はなく、二宮と湘風が定員より少ない希望者です。実際の志願者とは異なりますが、ある種の傾向は読み取れます。

さて、どこの中学でも受験のための仮内申が出て、3者面談が行なわれています。内申点についてはいろいろな批判が聞かれます。『人間が人間を判断する』訳ですから、なかなか簡単ではありません。僅か一点の増加や減少で、受験校に変化が起こることもあるので、思うような点がとれなかった場合、不満が残ります。

ともあれ、仮内申が出るといよいよ、今年の受験シーズンへ突入です。毎年、これを境に気持ちが切り替わります。『よし、やるぞ・・・』と。勿論やるのは私ではないのですが・・・

2010年11月29日月曜日

ご褒美

中間テスト直前です。中2の補習が長くなり日付が変わるまでやっていました。

そのまま全員が塾で仮眠を取って、翌朝授業を始めるというかなり無理な勉強をしたこともあります。そうした勉強が効果的だと思っているわけではありません。ただ、少し無理をして自分の限界を知って欲しいと思っています。限界は思っているよりずっと遠くにあって、もうだめだと思っているところより更にもっと遠くにあることを体験して欲しいのです。

そして、他人に強要されることなく、自分自身でそのような場所に身を置くことができるようになって欲しいのです。

結果はその後についてきます。初学者が勉強の効率を初めから考えてはいけません。それは、懸命の学習の中で、必要に迫られることによって得るべきです。

勉強の方法や、勉強の面白さや、特別な問題集や、そういう部分を考えている暇があったら、一題でも問題を解きましょう。集中して学ぶ中で、勉強の方法や、面白さは少しずつ分かってきます。だらだらとやっている人間にそれを理解するすべはありません。

勉強の面白さや、効果的な方法は真摯に学んできた人に与えられるささやかなご褒美なのです。

2010年11月23日火曜日

満点

中3のH君に中間テストの結果を聞いていたときです、数学が・・点、英語が・・点と見せてくれたのですが理科だけ「うんっ」といってテストを差し出しました。「えっ?」と思いながら2つ折にされたテスト用紙をひろげると中にA4の解答用紙がはさんでありました。満点でした!

感情を表に出すタイプではないH君の精一杯の感情表現だったように感じました。実力はあるのですが、それを上手く表現できない。そんなタイプでした。今度はその力をしっかりと表現できたのです。

しみじみと「よかった」と思いました。

そんなうれしい気分を抱えて遅く家に帰ると、いつものようにメールチェックをしました。

その中に高3のSさんのメールがありました。「・・・?」と思って明けてみると推薦合格の報でした。
「やったーっ!」

これだからこの仕事はやめられない。

こんな夜、いつもより酒量が増えるのは当然のことです。

2010年11月22日月曜日

会話虚弱国を変革する①

今に始まった事ではありませんが、英語等の言語を習得する際に「フレーズ」で覚えるという方法があります。具体的にみてみましょう。


問:「今日は何曜日ですか?」を英語にしてください。





答:What day is it today?
できましたか?では次です。


問:「今日は何を食べたいですか?」を英語にしてください。





答:What do you want to eat today?
できましたか?
現在の中学教科書に慣れ親しんだ人は初めの問はパッと答えが出てきて、次の問はさっきより少しだけ時間を使って答えが出てきたのではないでしょうか。また後者がパッと出てこなくても、前者と要領が同じですからそれをヒントに辿れたのではないでしょうか。
この様な型に対応する瞬発力がフレーズにはあります。


英語を学ぶにあたって、文法を学ぶこととフレーズを学ぶ事は同時に行われるべきではないかと考えています。この二つは以下の役割と相互関係をもつからです。
フレーズ:文法の習得を容易にする。思い出す為のラベル漬けの役割を果たす。
文法:フレーズに理論的裏付けを与える。正しい英語を扱える。


現在の英語教育では文法は押えていますが、フレーズはまだまだです。
これはひとえに「発話」不足によるものと考えています。フレーズは音に乗らなければ、自分から口に出さなければ覚えられないのです。特に高校では音に出して読む事はほとんど出来ていないと言ってよいでしょう。



次回に続きます。

2010年11月21日日曜日

悠々会やります。

12月16日(木) 本年最後の悠々会やります。
時間のある人は寄ってください。
時間の詳細は後日。

2010年11月18日木曜日

模擬テスト

 中学2年で模擬テストをしました。この時期の模試はあまり良い結果を期待できません。一番の理由は中1のときのことをすっかり忘れてしまっているからです。

 数学や英語のような教科は知識を積み上げていく教科なので、過去の学力が現在の学力の前提となっています。中1のことをしっかりしない状態で中2以降の学力の向上を期待することはできません。従って、今、数英が得意な人は概ね以前も得意だったと言えます。

 一方、理科・社会のような教科は中1は中1、中2は中2ですから、中1で理社が苦手でも、中2では得意だということは十分にありえることです。逆に、模擬テストのように広範囲のテストでは、今、理社が得意でも良い点がとれないということが当然のように起こってきます。

 こうした教科の特性から、通常の勉強の方針が定まってきます。英数は基礎の基礎(中1まで、あるいは小学まで)まで戻って復習をしなければなりません。小学校レベルの掛け算・割算(小数点のあるもの、分数の混ざったもの)に問題がある場合は珍しくありません。公立中学校の半数以上(データがあるわけではありませんが)に問題があるのではないかと思います。英語では、be動詞と一般動詞の区別と応用、人称変化、三単元は中1の最重要項目で、それができていない場合は中2,3でも急いで復習しなければなりません。

 理社に関しては、とりあえず今やっていることを、しっかりやるようにします。夏休み等で時間に余裕があれば過去の復習をします。このときも、忘れないように概略をザーッとやる方法が有効です。

 さて、問題は国語です。中2だと、生まれてから13~4年の言語体験があります。それを無視するわけにはいきません。豊かな言語体験をしてきたものとそうでないものとの差は圧倒的です。直近のテストのための勉強だけでそれをカバーするのは無理があります。
 電車に乗っていたら、Y学院という予備校の広告が張ってあり余した。「偏差値40から東大合格」というものでした。その合格者のプロフィールには小さな字で有名私立一貫校の名前が書いてありました。彼らは、中学入学時までに、公立中学入学者に比し、桁違いの量とレベルの言語トレーニングや計算トレーニングそして、公立中学校卒業に匹敵するレベルの理社を身に着けています。それがあっての「偏差値40からの・・・」なのです。
 そうした13年に及ぶ言語トレーニングの不足をどう補うかは難しい問題です。真っ先にできることは語彙(漢字を中心とした)を増やすこと。そして、論理的な文章を正確に把握できるようにすること(入試問題を設問に答えることなく毎日一定量読むのがお勧めです)でしょう。即効性がありませんので、当然のように日常的に継続して行なわなければなりません。
 

2010年11月17日水曜日

人工眼

2010年11月3日、ドイツの医師チームが網膜下に埋め込む最新式の「人工眼」によって、進行性疾患で中途失明した患者の視力を劇的に回復することに成功したと発表しました。

勇気を持って人工眼の手術を行った被験者は、その全員が部屋の中の物や形の認識と、諧調(明暗)の識別を行えたといいます。従来にもこの様な義眼は研究が進められてきましたが、今回の発表はカメラ付き眼鏡等の外部センサを使わずに、網膜に直接チップを埋め込んだ事が進歩であるそうです。


視力が悪くなってゆく恐怖というもの感じたことがある人は多いと思います。しかし進行性疾患による失明はこの比ではありません。「何故自分だけ見えなくなってしまうのだろう」という悲壮感から不幸な事故に至ってしまったという話も聞いたことがあります。
今回のニュースはこの様な事故に待ったをかける革新的発明で、一度奪われた五感が再び取り戻せる事を証明しました。しかも回復後にはトレーニング等を全く必要としなかったそうです。
 
この他にも考えるだけで動作する義手等が既に開発されています。
科学技術はビジネス向けの社会貢献を果たすことも大切な役割であると思いますが、今回の様な五感を失った人を救う貢献こそが、果たされるべきもっとも大きな使命であると思いました。

2010年11月16日火曜日

インターフェース

不便・不要・不可避などなど、世の中は未だ改善点に満ちています。
この様な「不」のつくものにビジネスの余地があると言われています。


優秀な例としてユーザーインターフェースがあります。
インターフェースとは、二つの物の間に入って仲介を行うモノの事です。パソコンのマウスやキーボードの場合は人間とパソコン(本体)を結ぶ役割を果たすことから「ユーザーインターフェース」と呼ばれています。


Gitte Lindgaard博士によれば、人間がコンピュータに入力した際に、0.1秒~1秒以内に応答がなければ人は待たされている(「あぁコンピュータ頑張ってるな。」「早くしてよ。」といった思考が廻る)感覚を持ってしまうと言います。逆に0.1秒以内に応答があった場合、人間はコンピュータを直接操作している感覚を持つと言います。
ユーザーインターフェースはこれに見事に応えていて、マウスやキーボードは押せば直ぐに反応します。これに対してインターネットやソフトウェアはこの点においてまだまだ物足りず、「不」快の元となっています。よって回線速度向上やソフトウェアの軽量化がビジネスの焦点となっているのです。




「看板が無いから場所がよくわからなかった」
悠々館ではたまに起こるトラブルで、明らかなインターフェース「不」足ですね。
重要検討事項にて講師一同知恵を絞っておりますので、もうしばらくお待ちください。




※マウスやキーボードは今回取り上げた一面では優秀ですが、場所をとる点や直観性という点で時代遅れな所があるため、「不」満の募りつつある分野でもあります。普及がなされすぎている為に現在ではまだニーズがありますが、今後淘汰されていくかもしれません。

2010年11月15日月曜日

努力の成果

O君が塾に来るなり『英検受かった』と言って、ちょっと自慢げに郵送されてきた書類を見せてくれました。英検合格者の数は全国では膨大ですから、特別たいしたことではないかもしれません。

しかし、まだそれ程の成功体験のない子にとって、この小さな体験は重要なことです。英検の前には塾でN先生と対策の勉強をしていました。その結果、勝ち取った成果です。努力の意味、成功の喜び、それを少し分かったのではないかと思います。

別の子ですが、漢検6級から準2級までの合格証明書を全て額に入れ部屋に飾ってあると言っていました。『準2級だけ貼っとけば良いんじゃないの?』と尋ねると、『それぞれが同じように大事』なのだそうです。最終的な結果ではなく、その途中でした、努力と喜びがどの級にもあるからなのでしょう。その喜びが次の努力を支えていくのです。

今まで教えてきた中で、努力が成果を出さなかったケースはほとんどありません。勉強したのに結果が得られなかった場合の多くは本人がやった気になっているだけです。そういう意味では勉強は努力がかなり正当に評価される世界です。

残念なことに、社会に出れば、必ずしもそうではないことは沢山あります。

2010年11月14日日曜日

大学の補習

少し前に高校・大学間の連携の話を書きました。内容は大学生が高校に行って、補習を受けるというものでした。かなりの大学生が大学レベルの勉強をすることができる水準にないからです。

その数日後TVでもっと過激な補習をやる大学の様子を放送していました。それはこんなものです。
大学で補習と称して公文式をやっていました。ある大学生がやっていたのは公文のAコースやBコース(小学1,2年程度)で、1桁の足し算・引き算、筆算による2桁の足し算などでした。

その補習を受けていた学生の1人のコメントはこんな感じでした。
『公文どうですか?』
『公文めっちゃいいっス!!
ってか、やってて最初わかんなかったけど
だんだんできるようになって
”あっっ!! 自分できる!!” みたぃな?! 』

無言絶句!(五言絶句ではありません)

清掃活動

高校生の大集団が歩道を塞ぐようにだらだらと歩いていました。どうやらゴミ拾いに出かけるようです。ごみをつまむトングのようなもの(なんと言うのでしたっけ)でちゃんばらをしているものすらいます。すこしはなれて、最後尾を先生とおぼしき人たちが”仕方ないな”という風でついていきます。

こんな光景を最近あちらこちらの高校で見ました。ひょっとして、全県立高校でやっているのかもしれません。実際に拾っているところを見たことはないのですが、ちょっと首を傾げてしまいます。行動に気持ちが入っていないとき、どのような行為もだらしなく見えてしまいます。

中学校でやる ”強制的な” ボランティア活動(=自発的な活動)みたいなものなのでしょうか?
まさに、言辞矛盾そのものです。

きっかけとしては良いことだと思いますが・・

2010年11月11日木曜日

漬かる様に学ぶ

世の中には残念なことに器用・不器用という性質が存在します。
例えば僕が友達とダーツに行った時。始めは横一線で下手だったはずなのに、最終的には実力に開きが出て、友人Aが勝ち続けるようになりました。そしてそれはダーツに限らずボーリングやテレビゲーム等でも同じで、僕らの中で友人Aは越えられない壁の様な存在でした。


ここで僕のような凡人が友人Aに勝つ為の手段はなんでしょうか。
結論から言いますと、習熟したい分野に対して没頭する事が一番の近道ではないかと考えました。


私の英語教師であった先生は、英語の習得について次のように述べています。



「英語講師になって8年目の春、スランプがやってきた。会議などで英語を話すとき、つっかえてしまうのだ。子供の運動会でコケてしまう、昔はスポーツマンだったメタボの気味のお父さんの様に。まずい・・・。」


「海外から帰国して約10年。すっかり貯金を使い果たしてしまったのでしょう。日常会話ならまだしも、英語を長い時間聴く事が、読むことが苦痛に感じるようになっていた。体力不足だ。野球の練習で言えばランニング。ここをさぼると足腰がおぼつかなくなる。足腰がおぼつかない選手にシャープなスイングはできないのだ。」


「やさしいものを多量に読み、書き、聴いて、話すこと。これが英語の体力増強の方法。どれくらいか? 著名な先生によれば200時間以上だそう。それ以下であれば効果は期待しないほうが良いそうだ。ジョギングをするように、自分のペースで(英語のレベルで言えば辞書なしで8割内容が取れる教材で)距離を走る(読み、書き、聴いて、話す)ことが大事。
一方、体力が付いたら素振り、トスバッティング、シートノックなどを通して正しいフォームを身に付ける。英語で言うと音読、シャドーイング、ディクテーションなどだろうか。」


(中略)


「ちなみに私はその後スカパーと契約、家のテレビは全て英語のプログラム。 出歩く時はmp3プレーヤーにいれた英語の音声を、電車の中ではペーパーバック。一日三時間程で三ヶ月を越えるころに英語が外国語ではなくなる感覚がよみがえり再び、夢を英語で見るようになりました。」



英語に限らず、このアイディアは重要です。
物事の習得は通常、始めの部分は伸びが良いのですが、途中から途端に成長が見られなくなってしまいます。この壁を突破できるかどうかが挫折してしまうかどうかの鍵です。なぜならその壁を越えた先には、学習を苦に感じ難い新たなステージが待っており、学習が再び楽しくなるからです。


学習分野の内容を夢で見ることはわかり易い目標であるとして、僕も設定しています。
しかしやらねばならない事も山積しているので、タスクに邪魔されて学習が進まない事を避ける為に電車の中や部屋での生活をもう一度見直さなければならないなと思います。

2010年11月10日水曜日

備えあれば憂いなし

11月も3分の1を過ぎました。身軽でいて服装を楽しめる季節も終わりが近づいてきてしまうことは少し寂しい半面、冬服が足りないので今年は何を買おうかと考えると楽しい時期です。


しかし受験生、とりわけ大学受験生にとってはいよいよセンター試験の足音が近づいており、心穏やかに過ごせる季節ではないのでしょう。僕は個人的に現在高校3年生の子の家庭教師を持っているのですが、その子と話をしている時に、“あと2カ月”ではなく“再来月”というフレーズが出てきた時には「リアルです…」と言ってうなだれてしまいました。


センター試験は毎年1月の半ば頃に実施されます。
国立大学を志望するならば避けては通れない試験で、通常5教科7科目をこなします。センター試験は翌日には新聞を通して回答が掲示されるため、受験生によっては(良かれ悪かれ)その3日間で決着がついてしまう事もあります。


個人的な見解ですが、旧帝国大学等の所謂A~Sランク大学を第一志望とする人を除けば、この残り2カ月からセンター試験の習熟をやり始めるべきだと思っています。
なぜならセンター試験の特徴として、教科が多いこと・試験内容がやや独特であることが挙げられます。よって受験生は総合的な学習と時間内に実力を出し切る要領が必要です。
なので過去問を用いたテスト形式で練習を重ね、解説を見ながら問いに対して研究することで知識を深めるといった学習法を繰り返し行い、自分の回答リズムを作り上げる事をします。


僕の場合の回答リズムはこうでした
1.大まかに形を組み上げる
2.出来なかった部分を考える
3.出来てる部分が本当に合っている事を確認する
4.もう一回見直す
少なくとも3番まで達していなければ、そのテストは失敗作です。もちろん国語等は時間的に厳しいのでこの限りではないのですが、基本はこの手順を踏めるように本番も心がけて解きました。


一発勝負の世界において何よりも強い事は安定感であると確信しています。
とりわけセンター試験は何をやるのか判っているのですから、準備=点数安定率の向上なのです。
ラストスパートを、身近にいる人の誰よりも頑張ってください。

2010年11月9日火曜日

スパイラル・モデル

先日、学生のビジネスプランコンテストを見てきました。
経営学部が主催だったのですが、現代社会が取り入れられていない部分に目を付け、収支や数年間のプランをかなり具体的に述べていて素晴らしかったと思います。こういったプレゼンテーションを見ていると、大学生もまだまだ捨てたものではないと思うものです。


例えばソフトウェアならば、組み立て式なので設計さえ完璧ならば(それが困難なのですが)各自が然るべきパーツを組み上げて、それをつなげれば思った通りの作品が完成します。
しかしビジネスプランコンテストでは、何の作業をするにしても全員が情報を共有していなければ段々とプランにズレが生じてしまい、作品のクオリティを損なう原因となります。


チームには多角的視点と長所の相乗効果の為にも、様々な人種の人間が必要です。
しかし思考が異なる為に、上記のような同期のズレを生む危険性もまたあります。よってチームには綿密な計画を練る事や、目に見える成果物をこまめに提出する事で意見のズレを修正しながら作業を進めていく必要があります。


今回見たグループの一つに「駅のホームを花と緑で快適通勤に!」というテーマがありました。僕がまっさきに思ったことは「満員電車の中に蜂が入る危険性とその対策」でした。結局この事やこれ以外の非人間的トラブルに対する技術的対策はありませんでした。恐らくこのチームには工学的発想の人物が不足しおり、そこだけがちょっと残念でした。

2010年11月7日日曜日

how to ものの本について

20年ほど前、ある著名な文化人が『アメリカの出版物の大半はいわゆる how to もので・・・』とそれを揶揄するような文を書いているのを読んだことがあります。"how to もの”とは”~の仕方”、”~の方法”といった種類の出版物です。『私はこのようにして大富豪になった』『私はこのような勉強法で、偏差値40から東大に入った』『正しい、乳母車の選び方』 『初めての株』 そんな本のことです。

その影響か、私自身は how to もの をあまり読まないようにしていました。ところがそれからだいぶ経って日本の出版状況は大きく変化してきました。本屋の書架は漫画に席巻され、how to ものはその割合をアメリカ並みに増やしてきました。今や how to ものはベストセラーの中に沢山顔を出しています。

その理由はいくつか考えられますが、一つは、ある世代の持っている知識が次の世代に連続的に伝わっていかなくなったこと。もう一つは技術に対する信仰が広まったことではないかと思っています。

前者に関しては言を要さないかと思いますのでここでは割愛するとして、後者のことを少し考えて見ます。

西洋の科学技術は方法論の歴史です。科学においてある事柄が認められるということは、同じ条件で別の人が同じ実験をすると同じ結果を得るということです。そうした追試によって、その理論・実験の価値が決まってきます。それはまさに方法論そのもので、『このようなやり方で・・・すれば、あなたも同じように・・・できる』という主張です。『このようにすれば、あなたも大富豪になれる』『このようにすれば偏差値40のあなたも東大に入れる』『このようにすれば、あなたも絶対に乳母車の選択に失敗しない』とうわけです。

一方、我が国の技術の歴史は必ずしも方法論の歴史ではありません。ある技術者がある技術を体得したとします。その技は弟子の中の最も優れたものがある種の偶然と共に師匠から授かります。『秘伝を授かるわけです。』 誰もがその技術を得られるわけではなく、苦労して技術を磨く中で幸運に恵まれた人がそれを得ることになります。西洋の方法論が連続的に伝わるものであるとすると、日本のものは点から点へと不連続に伝承されます。『このようにしたとしても、あなたは・・・ができるわけではありません』という考えです。

戦後民主主義には様々な功罪(功が圧倒的に多いと思いますが)があります。そのなかで、日本的な技術の伝承は特殊な分野(古典芸能や工芸など)では何とか残っていますが、ほとんどの技術は方法論という一大勢力に支配されたといえるでしょう。方法論さえあれば『あなたも大富豪になれる』『君も東大に入れる』というわけです。当然 how to ものが売れるはずです。

さて、私は尺八をやっています。練習熱心とはいえないのでなかなか『免許皆伝』とはいきません。
『上手な尺八の吹き方』という本があれば買いたいのですが、どこかに売ってませんか?

2010年11月4日木曜日

ゴッホの墓

センター試験の国語は読解という技術を悪い方向に変えてしまったのではないか?と思っています。詳細はここでは述べませんが、文章を読む楽しみを損ねる方向に向いています。いまや、国語の点数が取れることと文章が読めることとは同じことではありません。

さて、この世には”読みの達人”とでも呼べき人たちがいます。代表的な人物は評論家の故・小林秀雄です。日本人の持つモーツアルトのイメージは小林秀雄のモーツアルトであり、日本人のもつゴッホのイメージは小林秀雄のゴッホです。

モーツアルトを”疾走する悲しみ”と呼んだ小林秀雄はゴッホ論の中で『自ら狂人たらんと欲する多くの常人の中、唯一、自ら常人たらんと欲する狂人・・・』というような文章を書いていたような気がします。それが、ぼくのゴッホの根源的なイメージです。

ゴッホは若い頃ワーキングビショップ(労働司祭)のようなことをしています。働きながら神に仕えていたのです。その頃の作品『ジャガイモを食らう農夫』のような作品は晩年の色彩溢れたものとは一線を画す秀作です。そして、パリに出、やがて、ゴーギャンとのアルルの生活。その理想に破れ最後は自ら命を絶ちます。生前、ほとんど絵は売れず弟のテオの援助で生活をしていました。

随分前、とても若かった頃、ぼくはパリで暮らしていました。ある日、ゴッホの墓を見に行こうとパリ郊外に向かう電車に飛び乗りました。

オーヴェール・シュール・オワーズに彼の墓があるはずでした。オーヴェールの駅はとても小さく、ほとんど人通りもありませんでした。近くのカフェに入ってコーヒーを飲みながら、情報を仕入れます。ゴッホの墓までの行き方、ゴッホが自殺した部屋のある建物の場所などなど。

カフェを出て少し駅のほうに戻りそのまま進むと、左側に上り坂があったように記憶しています。その小径をしばらく歩いていくと二股に道が分かれています。そしてその正面にオーベールの教会が建っていました。ゴッホの代表作『オーヴェールの教会』の教会です。彼が思っているよりずっと写実的に描いているのに驚きました。そして、その背後にはたわわに実った穂を風に揺らす黄金色の麦畑が彼の絵そのままに広がっています。ご丁寧に、その空にはカラスのような鳥さえ飛んでいます。まさに『カラスの飛ぶ麦畑』なのです。

そこであった村人にゴッホの墓の行き方を尋ねると、長々とゴッホの説明をし始めました。そして、最後に『ほら、そこだ』といって、直ぐ右手のレンガ塀に囲まれた墓を教えてくれました。

墓標の文字を頼りにゴッホの墓を探したのですが、かなりの時間がかかりました。それは、他の墓と比べるとずっと質素な石のプレートが2枚並べてあるだけのものでした。一つには『ビンセント ヴァン ゴッホ』 そして、もう一つには 『テオドール ヴァン ゴッホ』と書いてありました。

(注)とても昔のことで記憶間違いが沢山あるようにも思います。悪しからず。

2010年11月2日火曜日

制度疲労

数日前の新聞にセンター試験を2種類にするというニュースが出ていました。従来のセンター試験を国公立と一部私大用にし、それとは別に私大用のセンターを実施するというものでした。

大学全入時代を迎えて、私大の40%は定員割れを起こしています。同時に学生の学力も低下し、現行のセンター試験では難しすぎて参加できないということのようです。それならばもう一つ易しいセンターをやって・・・。ということのようです。屋上屋とはこういう時に使うのでしょうか。それならばセンターという看板を下ろしたほうが良いと思います。

今年前半にはこんなニュースもありました。高校、大学提携のニュースでした。今までも高校生が大学の授業を受ける等いろいろされていましたが、今回のものは画期的でした。というのは、大学生が分からない勉強を高校に行って教えてもらう(補習してもらう)というものだからです。

最早、下位大学では大学という名に値する授業を維持するだけの質の学生を集めることができないのが現状です。特に理系は深刻で実験のレポートが書けない人が相当多く、そのレポートを書くアルバイトが存在しています。当塾にも面倒見てもらえないかという問い合わせが時々あります。文系でも経済や商学部の学生に初歩の線形代数を教えることがよくあります。

教育システムが制度疲労しているように感じます。

2010年11月1日月曜日

自学

今日から11月になりました。今年も残す所あと二カ月ですね。
中学生は今月末からテストがあり、また2ヶ月後の2011年1月には英検を控えておりますので僕たち講師陣にとっては最も大切な季節の一つであると感じています。


僕(長尾)のテスト対策テーマとして、今回は「自学」を挙げています。
何時までに何をすればよいのか、というような道筋や方法論はこちらで準備を徹底するとして、それを能動的に処理することで学習のリズムを身につけさせたいと考えています。


ここで大切なことは、教材が「自分の頭を使って行うもの」であることです。
とりわけ社会や理科等の記憶分野については教科書やノートを見る様な受動的学習になりがちなので、それに留まらないまとめや問題を自分で創作することが大切です。
作成にコスト(時間)がかかる事が欠点ですが、一度作ってしまえば日常やテスト直前などあらゆる場面で役に立つメリットが大きいです。


逆に英検等の対策は各自では中々捗りにくいでしょうから、こちらで手厚くカバーします。その際に単語カードを作成しますので、自宅学習はそちらの記憶に終始します。
また検定は集中して取り組む事が効果的ですので、12月や1月に徹底した対策を取ることが大切です。その為の特別講座も現在検討中です。


いずれにせよ、子供たちにとってはあっちいったこっちいったにならないシンプルな学習を提案していきます。風邪などのトラブルにも気をつけつつ、頑張っていきましょう!

2010年10月29日金曜日

中学生を成長させるために何をすべきか

僕はいつも塾に自転車で行っているのですが、今日は雨だったので歩いて帰ってきました。
夜中の散歩は頭がすっきりして、いろいろと考え事をするには都合が良いようです。

今日も中学生の授業を振り返りながら、とぼとぼと国道一号線沿いを帰ってきました。

授業の後に塾長と話していたのですが、なかなか学力が伸びてこない生徒がいます。
そういった生徒は勉強以前の問題が多く、例えば授業中に講師の話を聞いていなかったり、筆記用具を忘れてきたりします。

彼らがこのまま行くとどんな大人になるのかと考えてみました。
このままの成長直線を描くと少し不安なのですが、人生のどこかのタイミングで良いきっかけや出会いに恵まれると、それまでの成長直線から大きく外れて育つ可能性は大いにあります。

受験に向けて背水の陣で努力することがきっかけになったり、社会に出て上司に叱られて四苦八苦することがきっかけになったりするかもしれません。

もし仮に、この成長直線から大きく上向きに外れた将来の生徒に、今の中学数学を教えたとしたら、きっと今より遥かに出来ることでしょう。
筆記用具を忘れたり、宿題を忘れたりという、ある意味しつけの域は超えているはずです。

そう考えると、そういったしつけの域の生徒に勉強を教えるよりも、彼らの人間力を高めるようなことをしていくほうが、結果として勉強も伸びるのかもしれません。
つまり、人間として成熟させるきっかけを多く与えるのです。
幼少期にやんちゃが過ぎて、「うつけ者」と言われた織田信長を早く元服させたように。

社会に出ると自己啓発系の本を読む機会が増えると思うのですが、その中で書いてあるようなことを学生のうちにやらせてみると良いのかもしれません。
例えばトイレ掃除をしたり、一日の終わりにその日頑張ったことを褒めたり、人が困っていることを予想して先取りさせたり。

そのままやらせてもダメだと思うので、中学生用にアレンジしたら意外といいかもしれない。
数学の宿題を出すのと併行して、例えば「どうしたら志望校に行けるか作戦を考えてこい」という宿題を出してみるのも良いかもしれません。
勉強には戦略的な視点も必要なので。

「もしドラ」の感想文でも書きましたが、僕は塾の目的は「人を育てること」だと捉えています。
その視点に時々立ち返って、勉強以外の方法で彼らを育てることを取り入れていくことも必要なことなのかもしれません。


義務教育を終えて、社会に出たからこそ分かるのですが、(若干28歳の若輩者が偉そうに言うのは気が引けますが、)正解のある学問をしている方が正解のない世界で生きていくよりも遥かに楽です。

今の学生は学校を卒業して社会に出たらもっともっと厳しい世界で生きていかなければなりません。
社会に出たらどれが正解か分からないことを、自分で決断して、自分の行動に責任を取っていかなければならないのです。
そう考えると今の彼らに僕ができることをもっともっと考えてあげないといけないなぁと思うのです。
縁あって、お互いの人生の貴重な時間を使っているのですから。


講師は正解を知っていてそれを教える、つまり答えを持っていると思われていると思いますが、講師もどうやって教えるのが生徒にとって最適なのか日々悩んでいます。
僕も毎回授業の後に、今の教え方で彼らがこの先本当に伸びていくのか毎回自問自答しています。
それはきっと、子を持つ親御さんも同じだと思います。
そういった悩みを共有できた方が良いと思うので、このブログという場では虚勢をはらず、自分の悩みを素直に伝えていきたいと思っています。


ということで、今週の詩・句を更新しました。
山本五十六さんの僕が大好きな名言です。

2010年10月27日水曜日

Team You-You-Kan

本日のニュースですが、横浜ベイスターズの球団取得交渉を行っていた住生活グループがこの度交渉を断念したそうです。よって横浜ベイスターズは来年度もTBSが所有することとなりました。


さて、チームとはなんでしょうか
wikipediaによれば共通の目的、達成すべき目標、そのためのアプローチを共有し、連帯責任を果たせる補完的なスキルを備えた少人数の集合体である。

としています。
 
 
石川・藤田で出塁し、内川が繋ぐ。これをハーパーや村田らが強打で敵を圧倒し、下園らの下位打線が簡単には終わらせない打撃で切れ目のない打線を作る。と理想通りにいけば神奈川県民は北海道民に負けないくらいの地元ファンになるのですが、現実はそう甘くありません。
 
 
チームは達成すべき目標に一つなのでしょうか
その為のアプローチを共有しているでしょうか
見えている仲間達の欠点を補おうとしているのでしょうか
自分の成長しか見えていないのではないでしょうか・・・
 
 
 
 
先日、我がチーム悠々館も秋の戦略会議を行いました
五十川監督の監修の元、八木主将がチームの目的やアプローチを明確に示し、長尾・野地両選手がこれを達成する為に新たな仕事に取りかかる事となりました。
 
 
詰まっても、振り切ればヒットに成り得ます
今の僕の役割は全力スイングと機動力。そう思い、本日パンフレットの完成を持って始動の狼煙をあげた次第です。各員が繋いでくれることを信じています。

2010年10月26日火曜日

紅茶のお話

先日、当塾講師の八木先生から海外旅行のお土産を頂きました。
内容は紅茶で、数種ある候補の中から僕はアールグレイを選択しました。
頂く前にアールグレイとは何ぞやという事を知っておこうかなと思い立ち調べてみましたので、皆さんも雑学としてお付き合いください。


紅茶の名前には茶葉の産地がつけられる場合があります。例えばアッサムやダージリンが有名です。それに対してアールグレイとは、ベルガモットというミカン科柑橘類を香料とした紅茶を指し、茶葉の指定がありません。このような茶種をフレーバーティーと呼ぶそうです。


では何故アールグレイなのか。これは
Earl=伯爵
Grey=人名(グレイさん)
から取ってきています。つまりグレイ伯爵という意味です。そのグレイ伯から製法を学んだ紅茶商ジャクソン社が改良を重ね、彼の名前をそのまま用いて製品化したとする説が有名のようです。


さて肝心の飲み方ですが、ベルガモットは豊かな香りを持つためアイス・ホットを問わず飲めるそうです。ただし、アイスティーを念頭に置かれて作られたアールグレイは香りを強くつけており、ホットティーとして飲んだ場合に香りが強すぎて飲みにくくなることもあるとの事。
よって初めはアイスティーとして飲む方法が良いかもしれませんね。



肌寒くなってきた夜に、温かく作ったアールグレイをナイトキャップティーとしてゆったりといただく。アールグレイが好みの我が母には至福の一時に違いない。これを提供しよう。
と、小賢しい工作にてちょっとした不祥事のお茶を濁す…いやいや償いを果たす事を考えたのでした。

2010年10月25日月曜日

フラーレン または カーボンナノチューブ

日曜日の朝、ゆっくり起き、まだ十分に目覚めない状態でテレビをつけました。チャンネルを回して、あれこれ眺めていたら、ちょっと変わった番組をやっていました。

カーボンナノチューブの第一人者である篠原名古屋大学教授が高校生や大学生を相手に公演をしていました。なんとなく見始めたのですが、あまりの面白さに3時間番組全部を見てしまいました。朝食も昼食も食べ損ないました。

化学の授業ではS〈硫黄)、C(炭素)、O(酸素)、P(リン)にある同位体を必須のものとして覚えます。Cの同位体は黒鉛とダイヤモンドでしたが、フラーレンというサッカーボール構造のものが20世紀後半に発見され、同位体の仲間入りをしました。最先端の研究は日本の名古屋大学や名城大学を中心として発展しています。篠原教授はまさにその担い手の1人で、ノーベル賞に値する人のようです。

篠原教授は研究者としては勿論、教育者としてきわめて優れた人物だと思いました。その3時間の公演で、フラーレンからカーボンナノチューブに至る歴史と化学上の進化をとても分かりやすく、楽しく説明されていました。フラーレンがなぜサッカーボールの構造をとるのか、それがどのようにしてカーボンナノチューブになるのか等など興味の尽きない話があり、その一方で、フラーレンの研究の中でセレンディピティ(一生懸命研究をする中で、偶然得られる成果)によってどれだけ多くの物が得られたかの話があり。若い科学好きに是非見てもらいたい公演でした。

この番組で『へえー』ということが沢山あったのですが、そのうちの一つはフラーレンの名前の由来です。山岳用のテントは昔はハウス型(家の格好の骨組み、三角形の構造)をしていました。それが軽量で強靭なドーム型テントに変わってきます。そうしたドーム構造の建造物(ドームハウス)を提案したのはフラー博士でした。彼の名前はずっと前から日本でも知られていました。ドームハウスはフラードームとも言います。そのフラー博士の名がフラーレンの由来だとは思ってもいませんでした。

本1冊分あるいは2冊分に値する公演でした。NHKでなくては放送できない代物ですが、これに関してもう一つ『へえー』ということがありました。『地デジ』ではNHK教育が2つあるということです。同時に2つの別の放送をしていました。最初はそれが理解できず、驚いてしまいました。


(注)セレンディピティとは、『アラビア海をさまよっていたアラブの王子が、苦難の末、豊かな宝の島、セイロン(アラビア語でセレンデップ、現スリランカ)を偶然発見したという昔話』に由来するもの。苦難の研究の中で偶然、求めていたものとは別の豊かな成果を手にすること。

2010年10月24日日曜日

「ピカソの話しから」から

「ピカソの話」と「ピカソの話から」につづいて。

芸術の秋、素敵です。
最近テレビやラジオでも美術展の話題が良く出ます。
特に今hotなのは、六本木の新東京美術館で開かれている「ゴッホ展」。

ゴッホといえば、代表作「ひまわり」にもあるように、絵具の質感を前面に出した、明るい色彩の絵が印象的です。

しかし絵とは対照的に、彼の人生はかなり厳しいものだったようです。

ゴッホは20代後半まで仕事を転々とし、どの職もうまくいかず、
そこから好きだった絵画の道に進み始める。

しかし、どんなに素晴らしい作品を書こうとも周りには認められず、
精神的に病んでいってしまう。

37歳でピストル自殺をしてしまうまで(一説による)、売れた絵はたったの1点。

彼は人生で、仕事もうまくいかず、絵画でも成功しなかった。
精神的に病んでしまうことも少しわかるような気がします。

彼の絵はやがて彼の死後に認められるようになる。

興味深いことに、傑作といわれる作品の多くは彼の死の直前に多い。

彼の末期の精神状態が、作品に命を吹き込んだのかもしれません。

芸術を評価することは難しい。












2010年10月22日金曜日

タイムリープ

最近部屋が少し散らかりやすい事が気にかかっていたのですが、その原因は物が増えてきてしまって、収納が飽和しがちになっている点にあることがわかりました。
スペースを確保するために本棚を開いたのですが、そこである本に目が止まりました。


「生協の白石さん」


発売日は今から5年前の2005年11月3日。前年には「電車男」がブームになるなど、インターネットで時の人が出てきた初めの頃でしょうか。うわー懐かしいと思いつつも、ページをめくりだしたら止まらず、つい読みふけってしまいました。


ご存知のない方の為に補足しておきましょう。
大学生協の職員である白石さんは、生協に寄せられる「一言カード」に対しての返信をしています。この本はそのカードの内容をまとめた本なのですが、ここではごく稀に寄こされる「変な質問」に対して、彼の真面目でユーモラスな回答でのやりとりを抜粋して編著しているのです。
例えば次のようなものです。





Q.学校に入学してから

チョコバットをひたすら買ってるのですが
いまだにヒットすら打てません。
相手はどんなピッチャーですか?(リトル松井)



A.あえて類別するならば、
なかなか「特典」を与えないピッチャーです。
会心の一打を放つ事、お祈り申し上げます。(白石)


 
人の発言に対して真摯に受け答える事は意外と難しいものです
しかしあらゆる角度からの発想に応える柔軟性は有能で魅力的な人間へのひとつの条件でしょう。そう思うと同時に、自分は5年前と今とでその要素が成長したかと考えた時、唸ってしまいます。 次に開けるときには胸を張れるよう、日々の努力が必要ですね。
 
 
…こんな調子のおかげで、開ければ止まる片づけはなかなか進行しないのでした。
 
 
 
 
 
 
※「がんばれ、生協の白石さん(http://shiraishi.seesaa.net/)より引用。
本を買わなくても、上記ブログにまとめてありますので興味のある方は一読を。

2010年10月19日火曜日

優しさ

芥川龍之介の息子、故芥川也寸志(あくたがわやすし・作曲家)がその晩年に
『悲しみに近い番地に住んでいるほうが人に優しくなれる』
ということを書いていました。

龍之介の子に生まれ、若い時期に父の『自殺』があり、その後の人生が簡単なもので無かったであろうことは容易に想像ができます。その中で悲しみの中に身を置くことを学んだのかもしれません。
龍之介に酷似した相貌、優しい語り口、鋭い洞察。ぼくは彼のファンでした。


優しさは他者に対する共感から始まります。最近、ネットや社会情勢を見ているとどんどん優しさから離れていくと感じることが多くなりました。社会性が希薄になっているのでしょうか?

ハードボイルドな探偵小説を書いた作家レイモンド・チャンドラーは作中の探偵フィリップ・マローに
『強くなくては生きていけない、優しくなくては生きる価値が無い。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. 』
と言わせています。

生きることに余裕がなくなっている・・・のかもしれません。優しさを教える教育ってどこでするんだろう?そんなもの必要ない?そんな意見があることも知っていますが・・・

2010年10月17日日曜日

内申点についての雑感・・その1

中学の評点(内申点)が出揃いました。中2の後期以降の評点は高校進学に直接影響があるため生徒も僕も当然、気になっています。

評価が相対評価から、絶対評価になり点数そのものは以前より全体的に上がっているようですが、いろいろなところから不満の意見が聞こえてきます。

一番大きいのは、中間、期末の点数が評点に繁栄されていないというものです。『A君は40点で3なのに、Bさんは35点でも4だった。』という類のものです。意欲・関心・態度といった点数化が困難なものがどのように処理されているか不明だからでしょう。教師の恣意的な判断が働いているのではないかという意見もあります。

学校でなくても、人間が人間を評価するとき、こうした問題は必ず付きまといます。『何であいつが俺より先に課長になるんだ?』というものです。

意欲・関心を示すために、どんなときでも大声と共に手をあげる。座席はできる限り最前列に座れるように全力を尽くす。知っていることでも知らないふりをして先生に質問に行く。授業中は先生の顔を見て、必ず頷くようにする。授業前に今日やる部分の教科書を開いておく。ノートはカラフルに4色以上を使って美しく書く。その他、ここに書くのも馬鹿らしいほど様々な工夫?があるようです。
実際、そんなことするより前にするべきこともあるわけで・・・。

うーん。この話は、長くなりますから、少しずつ書いていきます。

2010年10月15日金曜日

ピカソの話から

長尾先生のピカソの話に便乗します。

ピカソは青の時代と呼ばれる若い時期から、キュビズムを通過し、その後、分解されたフォルムが再び統合されるまで、彼自身が美術史でした。

40年と30秒というのは良く分かる話です。40年の苦闘の果てにいとも軽やかに巨体が浮遊する後期の作風へと変貌していきます。

さて、こうした話からも教訓を得るのは、教育に関わるものの悲しいさがですが、無理やり結び付けて見ましょう。

勉強にも個人の歴史があります。同じ学年の中3が2人いるとします。彼らにはその前の14年という人生があり、その中での勉強の個人史があります。2人が同じ30分の勉強をしても、その成果は全く異なります。蓄積してきた過去が異なっているからです。まさに、14年と30分なのです。では、挽回できないのかというとそういうわけではありません。ただし、その蓄積を無視して、挽回することができるわけではありません。その分は何らかの形で補われなければなりません。

2010年10月14日木曜日

真価を説く為には

パブロ・ピカソについてこんなお話がある事をご存知でしょうか。



とあるパリのレストランにピカソはいました。
それがピカソであるとわかったある女性客が「このテーブルナプキンに絵を描いてください」とお願いします。


ピカソはこれに応じ、30秒ほどで描きました。
そして彼女にそれを手渡し、「1万ドル(現在なら約85万円)です。」と告げました


予想外の発言に驚いた女性は「でも、たった30秒ではないですか!」と反論します。
しかしピカソは「いいえ」といい、こう続けたのです。




「40年と30秒です」




この話について、あなたならどう思いますか?
僕ならやっぱりそんな大金を支払えない!と思う一方で、彼の言う事も否定しきれません。
その作品は確かに40年と30秒がなくては存在し得ないのですから。


この様に、モノはその表現如何によって価値が大きく変わる事があります。
プレゼンテーションやネゴシエーションにおいてこのスキルは非常に大切です。新しい研究や概念は一見「何の役に立つのか?」と思ってしまうモノがあります。これを普及させられるかどうかは彼らの腕次第なのです。


我々で言えば、数学や英語はクレバーな思考を身につけるためにも大切なスキルですが、生活に直結しないため子供たちにはその価値が伝わりにくいものです。
それを示すべく、黒板を使ったプレゼンテーションで日々勝負しています。

2010年10月13日水曜日

今何をしているかを考えながら学習する

大リーガー松井秀樹の話です。彼は野球を始めた少年時代から、現在に至るまで毎日素振りを欠かすことはありません。

『素振りは究極の練習です。想像力次第でどんな状況にも身をおける。例えばまず、投手の姿を思い描く。球種とコースを考える。球の高低、内か外か。直球を打ちに行きカーブが来た、などの自由な設定でも素振りは可能。僕はどの球、コースでもセンターに打ち返すイメージで振ります。・・・・略・・・ 何も考えずにただ振ることは意味がありません。・・・必ず、試合での打席をイメージして振ります。』

こうして彼はワールドシリーズでMVPとなりました。

能力にあまり差の無いと思われる二人の生徒が、同じ勉強をしても同じ成果を得るわけではありません。その成果の差が能力によらないならば学習の質に違いがあるはずです。2人の高校生が同じ数学の問題を同じ時間解くとします。一方はさっさと解き始め一題終わるとすぐに次の一題にとりかかります。もう1人は問題の意図を考え、何を要求されているのか、今、自分がしていることは何なのかを考えながら解いていきます。一題終わった後にはその問題の解答に至る思考の流れを確認して、次の問題にとりかかります。こうした作業は短時間にできますから、処理した問題量はたいして違いません。前者の生徒はテキパキと問題を解いているので一見良さそうに思えますし、本人もやっているという感覚を持つだろうと思います。ただし、ひと月もするとその問題はすっかり忘れられていることも珍しくありません。あるレベル以上の問題ではこうしたことが良くあります。

勉強も運動も、自分のしていることを自覚的に意識しているかどうかによって、大きな差が出てきます。今、何のために単語を書いているのか。今、何のために計算をしているのか。意識しておきます。それが無いと、単語や計算が頭の中を通過していくだけになり残っていきません。いわゆる『練習のための練習』になってしまいます。

2010年10月12日火曜日

二芸に秀でる

集団社会において、自分を見出すにはどうすれば良いでしょうか。
価値ある人間であるとはどういうことでしょうか。




どの分野においてもそうですが、ある程度システムが熟成した分野では"マルチな能力"というものが必要とされてきます。
例えば先のサッカー日本vsアルゼンチン戦では、アルゼンチンのゴールを防いだシーンの一つに岡崎選手のナイスクリアがありました。攻撃だけでなく守備にも献身的な彼の能力がチームの危機を救ったのです。


しかしそれと同時に、レギュラーやアカデミックな栄誉を得る為には他には無い突出した能力も必要となります(もちろん「高い総合力」という選択肢もありますが)。
またも岡崎選手を例に取ると、彼は飛び出し(守備陣の裏をかいて抜けだしボールをもらう事)が優れていると言われます。(自称)足の遅いFWである彼が日本代表に選出され、世界でゴールを挙げている理由はここにあります。


ここまでの話を総合すると、岡崎選手のスキルとは
「飛び出しの速さ×攻守に活躍する姿勢」
であると考えられます(僕は岡崎選手ではないので正確ではないのかもしれませんが)
いかがでしょう。個性を主張しつつ、全体をフォローしている選手像がイメージされてきませんか?




経験上ですが、よく言う「一芸に秀でた人間」には
・それ以外がイマイチ
・その分野で他にもっとすごい人間がいる
という事が多く、チームとしてはサブに回る事が多いと思います。いつ不必要になるかわからない存在でもあるため本人にとっても安住すべき位置ではないでしょう。


しかし、「二芸に秀でた人間」となった途端、状況は一変します。
なぜならバリエーションが一気に多彩となる為、組み合わせ次第で他の人と被る事がぐっと少なくなるからです。仮にサッカーの売り出し文句の数を20個とすれば、一芸では20通りだったものが、二芸では20×20=400通りの個性が考えられます。


後は自分のアイディア次第です。もちろんあえて同じ芸を組み合わせて徹底的に突出する決意を固める事も良いでしょう。
個性に確かな価値が存在し、理想像に努力が追い付いた時、きっとチームはあなたを手放す事は出来ないでしょう。




ごまんといる情報学習得者にあって自分がどんな存在なのか。
ごまんとある塾にあって悠々館はどんな存在なのか。
ひとつのアイディアモデルとしてこんな事を考えています。







※20×20=400について
二芸といっても、僕の中では(第一能力)>(第二能力)といった考えであり、(第一能力)×(第二能力)と書くために400通りになります。例えば
「シュート精度×ポストプレイ」と「ポストプレイ×シュート精度」は違うという意味です。

2010年10月10日日曜日

精霊バッタ

育てているスウィート・バジルの葉が殆ど食べられてしまいました。”精霊パッタ”のせいです。お盆の頃から増え始め、その姿が精霊流しをする船に似ていることからその名がついたようです。水をかけると何匹ものバッタがバッタバッタと飛び出してきます。彼らがバジルを食べつくしているようです。

このバッタの名前を長い間”小乗バッタ”だと思っていました。頭を上下する様子が小乗仏教の仏教徒の礼拝に似ているので”小乗バッタ”というのだと誰かに聞いたような気がします。頭を動かす仕草が米をついているようにも見えるので、”米つきバッタ”とも呼ばれます。ネットで検索してみたのですが、”小乗バッタ”では何もヒットしません。思い違いだったのかもしれません。

秋になり、大きなメスの上にずっと小さなオスが乗った、つがいのバッタが何組もバジルの葉をかじっています。

『むっ、待てよ・・・。小さいのが乗っているのだから小乗バッタか?” 謎は深まるばかりです。

2010年10月8日金曜日

大人の常識子供の非常識

【常識】
健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)、ごく普通の知識・判断力。(新明解国語辞典』より

社会には『常識』と言われるものが沢山散らばっています。例えば


「キャベツとレタス」違いは?
「料理のさしすせそ」とは?
「~行と書かれた封筒」を返送する際に何をしますか?
etc…


答えられたでしょうか。これらは家庭でよく使うものですので、20を過ぎた人ならば知っておいたほうがいいことであることは誰でもわかりますね。
では次の例はどうでしょうか。


「ISDN」って何の略?
「ワンセグ」のセグって何?


先ほどより正答率は低くなったかと思います。これらは同じく僕達の生活において身近にあるものですが、決して常識ではありませんね。
しかし僕らITの分野を専攻する人間にとっては知っていなければ笑われてしまうことでしょう。
ここで言いたいことは、「年齢」や「専攻職」によって常識が変わってくるということです。


こと僕達塾講師は学校教育についての知識の塊です。よって公式や解法等は常識の様に引き出す事が出来ますし、そうでなければなりません。
しかし生徒達はこうは行きません。僕らにとって当たり前のことであっても、彼らにとっては新しい事であるのですから。


新しい知識をいかに早く馴染ませられるか
「そんなの当たり前じゃん」と言わせる事ができるか
常の知識と昇華させられるか


焦らず、それを一つ一つ積み重ねること
授業でも私生活でも、最近はこんな事に気をつけながら学んで行こうと考えています。

2010年10月6日水曜日

我が意を得たり

病院の待合室で、普段ほとんど読むことが無い週刊誌を時間潰しに見ていました。その時、目に止まったのは”学習塾おすすめの中高一貫校ー首都圏有名400塾、塾長、教室長アンケート”(サンデー毎日)でした。

首都圏の中高一貫校が様々なテーマでランキングしてありました。それ自体はそんなに面白い記事ではなかったのですが、最後の方に『中学校に入ってから伸びる生徒はどんな生徒か?』というアンケートの結果がありました。

1位は『素直な子』 圧倒的一位で、全体の60%程度の人がそれを挙げていました。
2位は『集中力のある子』 これは、当然ですね。1位から随分離されていました。
以下・・・・・・・

結果は極めて普通で当たり前なものばかりでした。ぼくが考えるものとほとんど変わりません。だからこそこのアンケートは意味があると感じました。将に、我が意を得たりです。

乾いた砂に水をかけると、水が隅々まで伝わっていきます。教えたことがそんなふうに生徒に伝わっていくと感じることがたまにあります。そんな時、生徒は見る見る学力を向上させ、驚くほどの勢いで成長していきます。それは素直さや謙虚さと関係しています。他人の考えをどれだけでも受容することができる状態になっているのでしょう。

ただし、ここでの『素直』『謙虚』とは日常の、或いは個人の性格のものとは必ずしも同じではありません。勉強に関しての『素直さ』なのです。それは自分自身の『知』がたいしたものではないこと知ると同時に、自分の外にある巨大な『知の体系』に敬意を払えるかが問題です。

アンケートの下位に『話の聞ける子』というのがあったことを最後に付け加えておきます。

2010年10月3日日曜日

緊急地震速報

マナーモードにしているはずの携帯電話から突然聞き覚えのない呼び出し音が鳴り出した。運転中だったので無視しておいて、後で見ると”緊急地震速報”だった。”福島県で地震が発生し・・・・・”ということだった。この辺りでは何の揺れも感じなかった。

理科で学ぶP波が届くまでの僅かな時間、或いはP波がついてからS波が来るまでの初期微動継続時間の間に何ができるのだろう。これは真剣に考えておかなければ。塾ならば机の下にもぐる?運転中は車を止めて様子を見る?そんなことしか思いつかない。

以前、津波警報が出たとき、避難指示にもかかわらず多くの人が”前にもそんな警報が出たが、たいしたことが無かった"という理由で非難していないという調査研究があった。”本当に深刻な状況になるまで行動を起こさない人が大半だ”という話もあった。

今回のように何の影響も無い地震速報を頻繁に出すことが”狼少年”になるのか、それとも本当の災難のための予行になるのか。

何れにしても、個々人のレベルでの対応も考えておかなければならないようだ。来週、机にもぐる練習をしておこうっと。

2010年10月1日金曜日

中学前期期末終了

前期期末テストの結果が出揃いました。

次の4パターンに無理やり分類するとします。
①今度は良い点をとりそうだという予想通りに、良い点をとった者。
②今度は良い点をとりそうだという予想に反して、点数が伸びなかった者。
③今度は心配だなと思っていたが、予想に反して良い点をとったもの。
③今度は心配だなと思っていたが、その不安が当たったもの。

①の人。このまま頑張りましょう。多くの教科が一斉に点数が上がっています。変更すべきことは何もありません。油断と慢心を注意します。
②の人。何が足りなかったのか、一緒に検討しましょう。点数は直ぐに上がります。めげずに勉強を継続していきます。微調整すれば次は期待大です。
③の人。このパターンの人はあまりいまん。というのは普段の授業で実力を把握しているので、その予想に反して良い点をとるというケースは本当に稀です。世の中に、そうそう美味しいことはころがっていません。十分な勉強をしないで良い点をとるなんてことありえないでしょ。
④の人。失敗を繰り返しています。言ったことが治っていません。勉強以前の部分に問題がある場合が大半です。個々にいろいろな原因を考えることもできますが、ほとんどが勉強不足です(勉強しているようで集中していないものも含む)。あれこれ弁解を言わずに勉強しましょう。人のいうことに素直に従うことも必要です。

次は全員が①だと良いですね。

2010年9月28日火曜日

どこに行くのか?

 何のために勉強するのか?という問いに正面から答えるのは難しい。しかし、その問いに対する解答を持つことなく勉強を続けることもまた難しい。

 そこで、とりあえず至近の目標を作ることになる。一番多いのは、「**高校に受かるため、~~大学に受かるため」というものだ。塾でも志望校を早めに決めさせる。それにより、学習意欲が向上し、現実的にすべきことが明確になってくる。目標の設定は即効的な効果があり、行きたい学校が決まると、皆それなりに勉強し始める。しかし、事は簡単ではない。というのは、心の深部にこれが本当の目的ではないという疑念があるからだ。

 フランツ・カフカの小説に「城」という作品がある。城での仕事を依頼された測量士Kが城に行こうとするが城に入ることすらできず、不条理な中で翻弄されていく様子が描かれている。目的にたどり着けない中で、目標へ向かう行為自体(手段)が目的に摩り替わっていく。

 こうしたことは現代では至るところで起こりうる。目的を失って、道に迷う。迷った挙句、別の目的地に辿り着く。場合によっては終生迷い続ける。それを防ぐために、目的地までの道標を適宜設定することにする。それは親や教師そして友人たちの役目だ。可能な限り迷わなくするために、その道標は細かく、具体的で、簡潔に設定される必要がある。それに従っていけばまず間違いなく目標に到達する。

 問題はそのように生きていると、人生で頻発する予定外のことに対応できないこと。自立する能力が養い難いこと。そして、人生がとんでもなく退屈なことだ。

横綱白鵬

横綱白鵬がスポーツニュースに出ていました。
彼は今場所を全勝優勝し、来場所には大横綱「双葉山」の持つ連勝記録に挑戦することになります。インタビューをしていたのは元プロテニスプレーヤーの松岡修三でした。

白鵬「ぼくは夢の中で双葉山と相撲をしたことがあります」
松岡「えっ。それで、どっちが勝ったの?」
白鵬「言えない。それは絶対に言えない」

というものでした。「やっぱりな」と思いました。彼は相撲に極度に集中している。伝説の横綱「双葉山」のことも本当に良く知っている。そんな彼が双葉山と相撲をとる夢を見る。当然のことなのでしょう。意識の上でも、潜在化でも相撲を考えている。その証左だと思えます。

少し前にhttp://www.youyoukan.com/2010/09/blog-post_12.html書いたことですが、根を詰めて何かをやる人は必ずこの経験をしています。

それにしても、いったいどっちが勝ったのか?気になるところです。

2010年9月25日土曜日

人間って?

個人的な話ですが、最近感じることがあります。

必要なことだけやる。

例えば、テレビを見る暇があったら勉強する。
友達と夜遅くまで遊ぶ位なら、次の日に備えて早く帰って寝る。
ipodで音楽を聴く暇があったら、ニュースや語学を聞く。

理性的で人間らしい生活

最近そんな生活をしていました。

でも、ふと感じました。
そんな生活に、人として生まれてきたことの意味があるのか?

必ずしも生きていくのに必要じゃないかもしれない。
でも、趣味に打ち込み、文化、芸術、トレンドなど、幅広い対象に関心がある人に、
僕は人としての魅力を感じてしまいます。

学校の勉強を一生懸命やる。

もっともなことだと思います。

でもそれ以上に、それだけの人になってもらいたくない、と思っています。



2010年9月24日金曜日

期末テスト終了

中学前期期末テストがほぼ終わりました。どんな結果が出るか不安と期待で一杯です。
テスト対策をどれだけやっても、いつもやり残したという感覚を拭い去ることはできません。
その一番の理由はやったことが確実にできるようになっていると言い切れない部分があるからです。

5段階評価を別の言葉で言い換えるとだいたい次のようになります。
・評点5 今日できた問題は次週もできる。類題もできる。
・評点4 今日できた問題は次週も大体できる。問題が少し変わると、うまくいかないことが多い。
・評点3 今日できた問題が次週もできるとは限らない。できることもあるし、そうでないこともある。
・評点2 今日できるようになった問題が次週にはまたできなくなっている。

要は復習の問題です。繰り返して学習することができるかどうかです。期末のように9教科の場合、復習を繰り返す時間が万全といえるだけ確保できるとは限りません。特に、成績下位の生徒の場合、塾で扱わない実技教科の学校での学習がほとんど0に近く、その分だけ主要教科の時間が奪われます。

さて、皆がどんな結果を持ってくるか楽しみに待つことにしましょう。

ハーバード白熱教室・・・今 正義の話をしよう・・・

「ハーバード白熱教室」と言う番組がNHK教育TVで放映されていました。その本「今 正義の話をしよう」が出版されて日本でもベストセラーになっています。ハーバード大学法学部のサンデル教授の授業にカメラが入り、それを中継したものです。

ぼくも見ていましたが、なかなか面白いものでした。今回、「ハーバード白熱教室@東京大学」という名で日本版の授業が行なわれました。その様子が今週末の26日(日曜日)10時からNHK教育で放送されます。

塾の先生の中でも関心のある人がおり、今度はこの番組で感想文を書くと言うのはどうですかねえ?

2010年9月16日木曜日

筋トレが足りない。

ここ2週、小学生のクラスで四則の100マス計算を時間を計ってやっています。計算そのものは易しいものなので、全員100点を取ります。何かを身に着けるために、或いは何かに習熟するために100マスを使うことは良くやるのですが、今回はただ単に速くやることのみが目的です。陸上の選手のように、1秒でも記録を短くすることを目指しました。

以前、ドイツの有名ピアニストが
「日本ではリストの曲をどれだけ速く弾けるか、ストップウォッチで計っていると聞いた。そんなやり方では音楽性が育たない」
と言っていました。
「なるほど」と思っていました。

最近、考えが変わってきました。
時速3kmで歩く。時速10kmでジョギングする。時速20kmで自転車をこぐ。時速100kmでバイクに乗る。それぞれ感覚が違っています。やがて、速さに慣れてくると、その中で十分なことが出来るようになります。数学の、特に計算はそうした傾向があります。

だらだら歩くことしか知らない人間に、走れ!と言っても詮無きことです。しかし、少し走る練習をすると今までとは違った感覚を得るかもしれません。

実は、こうした100マスの練習は中学・高校レベルで数学が苦手な人こそ必要なのだと思います。定積分の計算や数列の和その他、小学レベルの簡単な計算が自在でないためてこずっている人が多いからです。

2010年9月13日月曜日

読書感想文:もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら

 今回悠々館講師の中で共通の本を読み、それについての読書感想文を書こうということになり、最近話題の「もしドラ」についての感想文を書こうと思う。ちなみにこれは「もしもドラえもんがいたら」ではなく、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』の略である。真面目に書こうと思う。

 この本は大変読みやすく、単にマネジメントのことをつらつらと書いているだけでなく、それをストーリー仕立てに分かりやすく書いているところがミソである。この本が参考にしているP.F.ドラッカーの本も読んでみたが、普遍性が高くどのような状況にも適用できるがそれ故具体性に欠け、非常に難解なものに思えた。そこで「もしドラ」の中ではドラッカーの原文を次々に引用して、それを野球部の運営という想像しやすい具体的なものに還元していった。それがこの本のヒットした理由だろう。

 さて、これから内容についても触れたいが、まず初めに言っておくことがある。僕は理系の人間である。理系の自分は「苦労して作りだした技術こそがNo.1だ」と信じていた。だから最初、「マネジメント」という言葉を聞いても魅力を見いだせなかった。マネジメントというものは、それ自体何も物を生み出していない、つまり、ものつくり程は価値がないものだ、と思っていたのだ。しかし「もしドラ」を読み進めているうちに、マーケティングについて書かれている部分に行きついた。そこには

    製品からのスタートでは「販売」、顧客から始め、その満足を満たすためのものが「マーケティング」である

とあった。言い換えれば、「手段ではなくゴールに集中せよ」、という風に僕は解釈した。これを読んだとき、受験の時のことが僕の頭をよぎった。僕の大学受験はあまり良い結果ではなかった。終わってから一番後悔したのは、「もっと調べておけば良かった」、ということだった。僕は毎日何時間も何十時間も一生懸命勉強した。でも実際のところ、何をどこまでやれば良い、というところまで調べていなかった。日々何時間も何時間も勉強し、努力している自分に満足し、または心のどこかで、それだけやっていれば大丈夫だ、と自分落ち着かせるために勉強をしていた。つまり、「ゴール」ではなく、「手段」に注目してしまったのだ。また、この「マーケティング」は僕個人の経験だけでなく、現在の日本経済にも問題提起しているように思える。皆さんはiPodを持っているだろうか。iPodは今や世界中だれでも持っているデジタルオーディオプレイヤーとなった。しかしiPodの開発元のapple社よりも前にすでにSONYはデジタルオーディオプレイヤーを開発していたし、売っていた。しかしSONYは自分の著作権を大事にするあまり技術をオープンにせず、結局のところiPodにやられてしまった。しかも皮肉なことに、技術力でいえば、SONYの方が圧倒的に上なのに、である。バッテリーの持ち、音質、ノイズキャンセリング等その他の機能どれをとってもSONYの方が上である。しかし消費者のニーズはいつでも音楽をダウンロードできる手軽さと直感性、デザイン性であった。SONYは砂漠の中オアシスを、体力を頼りに一週間求めて歩いたが、appleは最初の2日で正確な地図を手に入れ、3日目に真っ直ぐにオアシスにたどり着いたのだ。

 日本には世界に誇れる技術がある。もっとも高度な技術が必要とされる分野、例えば「航空宇宙分野」などに力を入れ、世界のリーダーシップを取っていくべきだ。「はやぶさ」の帰還は、日本の今後の進むべき道を私たちに示しているようだ。

またそれと同時に、iPodの例にあるように、自分たちの技術に溺れることなく、「顧客の満足につながる」開発にももっと取り組むべきだ。

「理系人間」の自分の価値観を見つめなおす、良い機会だった。

2010年9月12日日曜日

きたーっ!

根をつめて勉強していると、或るとき突然やってきます。
今まで苦労してなかなか解けなかった問題が、急に簡単にできるようになる。
なかなか覚えられなかったことがスイスイ覚えられるようになる。
しかも、覚えたことが鮮明に残っている。

そんな体験をしたことがありますか?

それは特別なことではありません。ある一定量の勉強を集中的にするとそうした状態はやってきます。
全ての知識が脈絡を持って、明確に理解でき、新たな知識がそこにジグソーパズルのようにピタッと嵌る。至福の時です。

どのくらいやるとそうなるかは難しいですが、寝ているときに問題を解いている夢を見る。その位です。
朝起きると真っ先に、そのことが頭に浮かぶ。そんな状態です。
あるレベルで勉強している人は間違いなくこの体験をしています。

何か1つテーマを絞って、トライしてみましょう。いつも頭の中に何かの問題を持ち歩くようにします。

2010年9月7日火曜日

事務連絡。今週木曜日。悠々会やります。

今週木曜日。夜、9時半。悠々会やります。 

2010年9月5日日曜日

”先生!問題の意味が分かりません”

英検のホームページに以下のような注意書きが出ていました。その一部を掲載しますと。

”最近、年少者の受験の増加に伴い、下記のような状況が増え、試験の進行および他の受験者に迷惑がかかるようなケースが出てきております。保護者の皆様には、小さなお子様が受験される場合には、以下の点にご留意いただくとともに、ご了承の上お申し込みください。

<最近の主な事例>
1.解答用紙の記入欄に、生年月日や名前(漢字)、会場名等が書けない。
2.問題の指示文が読めない。
3.試験中に飽きてしまって、鉛筆を転がしたり騒いだりする。
•上記1に関しては、解答用紙の見本で、事前にご家庭で練習していただくか、もしくは当日必要事項を記入したコピーを持たせるなどしてください。
•上記2に関しては、お申し込みをご遠慮いただきたいと存じます。
•上記3に関しては、他の受験者の迷惑となりますので、退室(失格)していただく場合があります。”

小学生で2級に受かる子もいて、すごい!と思っていたのですが、一方でこうしたことも起こっているのですね。なんとなくその様子が想像できます。年少者ゆえ仕様がないとも言えるのですが、最も重要で基本的な事柄が忘れられているという思いもします。それは、子ども自身でなく、その親がです。何かに熱心なあまり、視野が狭くなっている。あるいは、余裕がなくなっているのかもしれません。

さて、1と3はさすがに中学生になると問題になりませんが、2番は違います。最近、塾で英検の練習問題を解いたところ、問題の指示文についての質問がありました。単語を並び替えた後、指示された部分の単語の番号をマークするのもです。あえて、その質問には答えませんでした。読めば分かることだからです。

設問が少し複雑になると、その内容が把握できない子供が増えている気がします。読んで考える前に、誰かが教えてしまっているからかもしれません。

2010年9月4日土曜日

遅読の薦め

本の読み方が変わってきているのかな?と思うことがよくあります。

情報化社会の発達の中で、本という情報源もそれに無関係ではいられないからでしょう。大量の情報を効率良く身につける。そんな読みが主流になってきているようです。書店に山済みになっている「速読」の方法をあれこれ書いてあるものを立ち読みすると、「こんな方法で本を読むなら、読まないほうがましだ」と思ってしまいます。

毎日最低一冊の本を読み、年間に数百冊の本を読むと豪語する知り合いがいます。いったいどんな本を読んでいるのか訝しくなります。

2~3行ごとに本を伏せて、その内容を考えなければならない種類の本があります。数ページ読むのに1時間かかる文もあります。それは苦痛ではなく、楽しみです。文章を味わう。行間を読む。眼光紙背に徹す。本が未だとても貴重品であった頃の読み方です。

かつて、ある出版社のTVコマーシャルでこんな歌が歌われました。

    一冊の本があれば       
    地球の裏側に      旅することもできる
    知らない世界へ     向かって         
    旅立とう!  

問題は伏せたままの本がそのまま読まれなくなることです。

2010年9月2日木曜日

全てを認める

子供の頃はよく弁解を言っていたものです。
何か怒られると「だって、・・・・・だもん」としょっちゅう言っていました。
「理屈ばかり言っていないで・・・」と叱られると「はい・・・」と返事をして、心の中で「でも・・・・だから」と言い訳をしていたように思います。

立場が変わって生徒たちを叱ったり、意見を言ったりするようになりました。やはりいろいろな言い訳を聞くことになります。そして、言い訳を言っているようじゃだめだなと本当に思うようになりました。

「宿題を忘れたのは、・・・・のせいだ」 
「成績が悪いのは・・・・だったからだ」
「遅刻したのは・・・・のためだから」

確かに、その通りなのでしょう。宿題を忘れたのにも、成績が悪いのにも、遅刻にもそれなりの弁解や言い訳がある。その言い訳・弁解には道理もあれば、事情もある。
しかし、その事情に自分自身が納得していると、何かを変えることはできない。言い訳を自分の外部に作っている限り、人は成長しない。そう思うようになりました。

一度、謙虚に全てを認めてみましょう。その段階でもう何かが変わっているはずです。

2010年9月1日水曜日

読書感想文「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」

社会人の中には、ピーター・ドラッカーの本を一度は手にとった方が結構いることでしょう。
ご多分にもれず僕も、社会人2年目の頃にドラッカーの「プロフェッショナルの条件」という本を買ったのですが、内容が難しく、半分も読まないうちに読むのを止めてしまいました。
ドラッカーの本は普遍性が高く、内容もものすごく濃いのですが、内容を理解し、自分の仕事に応用していくことはなかなか難しいです。
そのため、ドラッカーの本を読んで仕事に応用し成功した人、例えばユニクロの柳井さんのような方の本が売れるわけですね。

と、前置きはこの辺にして、読んでみた感想を。

ドラッカーの言っていることを物語タッチで読み手に伝えるという構成は個人的には面白いと感じた。
というか、そもそも僕は物語タッチのビジネス書が好きだ。
こういったジャンルの本にとって肝心なことは、読んだ人が本家であるドラッカーの言っていることの1%でも理解して、自分の人生、仕事に活かせる内容になっているかということだと思う。
その点で、僕がこの本を読んで思ったことや、今後取り組んでみたいと思ったことを書いてみよう。

まず印象に残っている文章に、以下の二点がある。
・マネージャーは専門家の知識を伝える役割を果たす
・専門家はマネージャーの上司足り得る

悠々館の塾長は"専門家"だ。"職人"と言ってもいいかもしれない。
生徒を育てることに関して情熱を注いでいて、教える技術はきっとどこぞの予備校の講師よりも高いと思うものの、マネジメントはあまり得意ではないように思えた。
先に断っておくと、僕は塾長を心から尊敬しているし、今の僕があるのは塾長のおかげだと思っているし、何一つ批判する気持ちはない。
役割の問題を言っているのである。

僕は塾長の元生徒であり現在の立場としては部下に当たるわけだけれども、講師全員の力を束ねて悠々館を良い方向に持って行きたいと思っていた。
つまり、マネージャ的な役割を演じたいと思っていたのだ。
そう思っていたところにこの本でドラッカーの考え方に触れて非常に共感した。
「そうか、専門家がマネージャの上司というのはやはりあり得るんだな、と。」

現在の悠々館の状況を考えると、それが自分に与えられた役割であり、かつ、自分が成長していきたい分野であると感じた。

もう一つドラッカーの言っていることの中で、最も大事なことについて触れておきたい。
「事業の目的は何か?」ということだ。

この本の中では、高校野球の目的を「感動を与えること」と定義し、目標を「甲子園に出場すること」と置く。
甲子園に出場することは感動を与えるための手段ということだ。

では、悠々館、ひいては塾という事業の目的は何だろうか?
しばらく考えて僕は、「人を育てること」だと思った。
もう少し広げると、「自信をつけさせること」、「人を成長させること」だ。
「勉強ができるようになること」や、「テストの点数を上げること」は、目標であって目的ではないのではないか。
テストで良い点を取れれば自信になるし、次の努力につながるので、良いことだ。
だが、「人を育てる」という目的を果たす方法を考えると、他にもやれることが見えてくる気がする。

このあたりは生徒の親御さんや、講師それぞれ考え方が違うところだと思うし、学校と塾の住み分けも考えなければならないので難しいところだが、例えばみんなでキャンプに行くようなことをしてみたい。
また、塾の先輩が後輩に勉強を教えるような交流がもっと行われるようにしていきたい。
人にものを教えたことがある人は賛成してくれると思うのだが、教えることはその分野の理解にものすごく役に立つのだ。
実は講師陣は教えながら自分もレベルアップしているのである。
このことをもう少し積極的に塾の仕組みに組み込んでいけたら、何か面白いことが起こるんじゃないかと密かに思っていたりするのだが、これはもう少し将来的に。。。


とりあえず、この本を読んだ後に、思わずドラッカーの「マネジメント」を買ってしまったという点で、この本が僕に与えた影響は大きいと言えるし、僕にとっては良書だったということだろう。
大学生~社会人若手あたりが読むべき本だと思う。

2010年8月30日月曜日

夏期講習終了です。

夏期講習中ブログの更新が殆どできませんでした。忙しさと暑さのせいだと言い訳をしておきます。
それにしても暑い日が続きます。熱射病による死者も相当数でているようです。

暑さによる死というのが問題になるのはそんなに古い話ではないように思います。今から、30年も前、初めてインドに行きました。まさに圧倒的な暑さで、一日に10数本のコーラ(ケンパ・コーラというやつです)を飲みました。飲んだ途端に喉が乾く。そんな暑さでした。その夏インドでは”熱波”で数千人の死者が出ていました。”寒波”という言葉は普通でしたが、”熱波”という表現は当時日本で聞いた記憶はありません。

私が泊まっていたニューデリーの安宿の隣で、灼熱の太陽の下、まだ小学低学年程度の子供が日干し煉瓦を担いで僅かな金を得るために働いていました。何日かすると”ナマステ”と挨拶をするようになりました。ベナレスに移動するため宿を出るとき、近くで買ったマンゴーを彼にプレゼントしました。不意をつかれて、驚く少年の目を今でも良く覚えています。彼らに十分な教育が与えられれば・・・と思いながらオールドデリーの駅に向かったものです。

数十年がたち、インドは今や世界に冠たるID国家になっています。
今日のように、空全体が晴れ渡った暑い日。外に出た瞬間、インドが蘇ることがあります。レンガを担いでいた少年や、食べ物欲しさにぼくの後を数百メートル追ってきた少女や、飲み干したコーラのビンに残った最後の1滴を飲もうと寄ってきた子供たちや、その他、言葉にできないほどの境遇で生きている子供たち、彼らに教育が与えられたのだろうか・・・

まだ、煉瓦を担いでいるような気がして、気持ちが沈みます。

2010年8月23日月曜日

ケアレスミスを無くすには

ケアレスミスを無くすにはどうしたらよいかという相談を時々受けます。技術的なことを幾つか挙げることはできるのですが、決定的なことはなかなか言えません。答えに窮して『人間的な成長を待つしかないですね』ということもあります。

口酸っぱくミスとその原因を指摘し続けてもたいして解決になりません。そのミスが数学に関してのみ起こるというのなら、それには対処法があります。しかし、ケアレスミスを沢山する人は他の教科でも同様にしますし、勉強以外でもあれこれとやっているはずです。実際にテストでケアレスミスをする人は、日常生活でも同様のミスを繰り返しています。つまり、日常生活の問題が勉強に投影されているに過ぎないのです。

本当にこうしたミスをなくしたいなら、日常生活の改善から始めなければなりません。うっかりする・・・という、誰にでもあることに厳しく対応できるかどうかです。新幹線のパンダグラフのボルトを閉め忘れたことによる事故が昨年ありました。新聞の全面広告でイベントの日時をうっかり間違えて、巨額の被害が出たという話もあります。それらに比べると勉強のミスはずっと実害が少ないといえるかもしれません。だから、繰り返すのかもしれませんが。

日常のミスがある限り、テストのミスもある。当然のことです。

2010年8月22日日曜日

読書感想文第一回「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」

講師陣の集会にて「共通の読み物に対して読書感想文を書いて意見交換しよう」ということになったので、第一回には上半期のベストセラーの通称「もしドラ」を選択しました。



以下本編の核心的内容も含んでいますので、未読の方は閲覧にご注意ください。



まず読み物としての感想はサクサクと軽食を食べた後のような心地で、読み終わった後にはぁ~っと深いため息をはく程度ではなかったです。味自体は美味しかったけれども。
そういう意味も含めて、この本には「ライトノベル」という言葉がよく当てはまります。


ではなんとなく深みが削がれてしまった理由はなんでしょう。
ひとつに実世界とのギャップに違和感を覚える展開があり、首を傾げながら読む所があったからです。


一番大きかった場面は試合の描写で、何故なら東京で甲子園に出られる様な高校相手に本格育成一年足らずのチームが勝つことが現実的(理論的)に不可能だからです。
みなみ達はバッティングについてストライクボールの見極めに終始していたという描写からも、相手チームの投手が130キロ代後半のストレートをバンバンストライクに入れていくだけで間違いなく完封できる事がわかりますし、みなみ達もそれを承知していました。
しかし現実的には相手チームがみなみたちを見下しているならば尚更この作戦をとるはずで、連戦ですし無駄な球を投げさせる強豪監督はいないと思います。

言うなれば「妄想上で無抵抗な敵を一方的に殴る」ような描写が多々存在し、小説として内容が薄いものになってしまっていたのです。マネジメントをメインに置いた本なのですから、マネジメント対象が静的に評価されていた所は非常に残念でした。


ともあれ、女子マネージャーという日本人のほとんどが共通してもつイメージを題材にした点、ドラッガーのような経営書の硬さを一切省いた点、アクのない読みやすさは2010上半期ベストセラーを納得させるバランスで、「もしドラから学ぶマネジメント」という本が生み出せそうな位、商品として上手い仕上がりであったと思います。まさに技術ではなくアイディア。これからの社会を象徴する一冊だったかなと思いました。



第一回は5段階評価で星2.5をつけておきます。
では経営なんたるか等々より深い考察を語ることは他の先生にお任せするとして、僕の感想文は以上とさせていただきます。

2010年8月18日水曜日

100均の本を利用する

100均に行くと必ず、漢字や計算の本を見ます。それらはなかなか良くできていて、普通の本屋で入手するものよりずっと優れているものがあります。一般の書店では絶対に購入できない良書もあります。

その特徴は無駄な部分が殆ど無いことです。無意味なまとめや解説が一切無いものがあるからです。計算や漢字練習に関しては、ある程度やり方がわかったら、後は練習あるのみです。つべこべ言っている暇があったら、少しでも手を動かして、体に馴染ませなければなりません。それに最適な本は100均にしかありません。

最近の高校用問題集は解説の詳しさを競いあっています。詳しい解答が別冊になったものが主流になってきました。数学の解答は計算の一部始終を書いてあるものもあります。そうした、解答は実はとても読みづらく、答案としても決して優れたものではありません。積分を学習するのに、分数の加減まで詳細に書いてあるのはどうなのかな?と思ってしまいます。解答が詳しいと分かり易いというのはある種の幻想です。頭を使う部分がどんどん減ってしまいます。もっと、簡潔でポイントを押さえた本こそ、有用なのです。

限られた原価で本を作る。それが幸いして、100均に良書が並ぶのでしょう。

2010年8月16日月曜日

明日から夏期講習後半です。

塾もブログも一週間休みでした。明日から後半です。予習にスタンスを移していきます。

2010年8月6日金曜日

講師で本を勧めあって、読書感想文を書き合う

今日は久しぶりに全講師がそろって、現在の塾の状況や今後の目標などの話をしました。

いろいろと宿題もあるのですが、会の最後に、「講師同士で同じ本を読んで感想をブログに載せよう」という話をしました。
実は僕は、かなり前からこのことをやってみたかったのです。

前から読書については思うところがいろいろとあって、読書感想文という教育が良くないんじゃないかという話は以前記事に書きました。

http://www.youyoukan.com/2010/04/blog-post_12.html

で、講師同士で同じ本の感想をブログに書くと何が起こるか、と。

まず、僕は他の講師たちが面白かった本を読んでみたい。
本との出会いは本当に貴重な体験です。その後の人生に影響を与えることすらあるわけです。
そういった良書との出会いを増やせるというメリットがあります。

そして、その本を読んだ感想を話し合える。
これも貴重な経験になるはず。
最近「朝活」という、仕事の前に集まって勉強会をしよう、みたいな話をよく聞きますが、まぁそれに近い感じですかね。
同じ本を読んで、自分と違う視点を示されるというのは、かなり面白い経験になるはずです。
各講師のブログの感想文に他の講師がコメントをして、理解度が深まるのは考えただけで楽しそう。

最後に、その記事を読んだ生徒にも読書の楽しさが伝わるかもしれないという点。
講師たちが、とある本について感想を言い合っていて、興味を持ったら、その生徒も同じ本を読んでみたいと思ってくれるかもしれません。
そして、その本は講師の誰かが「この本いいよ!」と思った本なので、読んで絶対損はないはず。
とすれば、その生徒の成長につながるはずなんです。

と、少し考えただけでもいろいろと面白い効果がありそうなこの企画。

ぜひとも実現させたい。

ということで、まずは「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」から行ってみますか!

長尾先生、早く読んでね。

2010年7月30日金曜日

小学生との授業 その1

小学生を教えているとその能力の高さに驚くことが度々あります。
大人が子供に勉強を教えることができるのは能力に差があるからではなく、圧倒的な経験の差によるのだと思えます。

足し算、引き算のような単純な計算に関してはなおさらです。それはほぼ反射とも言うべき行為ですから、経験が入る余地が余りありません。従って大人と遜色ない、あるいはそれ以上の実力を持つ小学生が沢山いるわけです。実際、難関中学を受験する小学生の計算力はたいていの大人の計算力をはるかに凌いでいます。

そんな小学生との授業のことです。
「先生はどこの大学出てるの?」
と尋ねられました。ちょっとからかうつもりで、
「俺は、優秀だから幼稚園しか行っていない。ある日、幼稚園の砂場で数学の難しい問題を解いていたら、近くの小学校の校長先生が来て、『君は優秀だから、小学校に来ても何も教えることが無い』と言ったんだ。だから、幼稚園に行っただけだよ。』と。
「うそだー」と生徒たち、「それどこの幼稚園?」
「えっ?そっそれは・・『森の幼稚園』だ」ととっさに答え、「友達にプーさんやピグレットがいたなあ」と熊のプーさんを思い出して、答えました。この段階でぼくの嘘は見破られるはずでした。
後日、また、この話が繰り返されました。一通り、ぼくの話を聞くと生徒は一斉に
「うそだー」と叫びました。とそのとき、Y君が
「そんなこと無いよ。『森の幼稚園』って本当にあるんだよ。お母さんがあるって言ってた」と言ったのです。
えっ。あの話を信じたの?そして、お母さんがそれがあるって言ってくれたの?
あーっ。ぼくは胸が熱くなりました。子供っていいなあ。彼らと一緒に学べる喜びを感じた一瞬でした。

こんなことにころっと騙される小学生と驚くほどのスピードで計算をする小学生とが同一人物の中に存在する。そのアンバランスが彼らの魅力です。そして、そのアンバランスを修正していくのがこれからの学習なのかもしれません。

2010年7月24日土曜日

一生読む受験参考書

高校3年生と古文をしました。古文は専門ではないので、一緒にやってみるといった感じでしたが、意外にもぼくの方が良くできていました。彼らは高3で、しかも文系なのでこの結果は少し自慢しても良いかもしれません。(彼らの方が心配すべきかも知れませんが・・・)

ぼくの古文の知識は高3でピークに達します。たった一冊の本でそのほとんどの知識を得ました。小西甚一「古文研究法」(洛陽社)。著者は著名な国文学者で東京教育大(現・筑波大)教授です。とても奥の深い本で、大学受験だけのために書かれたものではありませんでした。受験が終わると全ての本を捨ててしまい、数十年後の今、手元にあるのはこの本一冊です。読み込んでゆくと、古典の世界の広がり、古文を読む喜び、そして、探究心がくすぐられる本でした。今でも、何かあるとこの本を開きます。

今、古文を学ぶ人に人気なのは「マドンナ古文」や「ゴロゴ・・・」といった本です。分かりやすく、語りかけるように噛み砕いて書いてあり、具体的に点数をとることを目的にしたものです。古文にかかわらず、このタイプの本が増えてきました。

それはそれで良いのですが、受験勉強が更にその先の勉強につながる、そんな本が減ってきました。ちょっと難しい本を苦しんで学び、その中で、受験ではなく、その学問への関心を増してゆく。そうした読者に媚びない本。きっと売れないんでしょうね。

参考書を見ていると現在の日本の学問水準が感じられます。

2010年7月23日金曜日

野球

静岡大学に行っているA君が夏休みの帰省で塾に顔を出してくれました。江南野球部のキャプテンで、静大に入ってからも硬式野球をやっています。日焼けした顔は精悍さを通り越していました。
「おい。お前、怖いぞ!」
将来は高校の先生をしながら野球部の監督というのが彼の夢です。
ぼくも少しばかり野球をしたので、硬球がバットに当たる独特の音を聞くとなんとなく興奮してしまいます。
ここ数日のとんでもない暑さの中で、無心に野球をする。中学生でも大学生でもなく、高校生が。うーん、良いですねえ。

2010年7月21日水曜日

今日も暑い一日でした。

高校の授業をしていたら、八木先生が古文の日程調整で来塾。ちょうど良いので、生徒の物理や数学の質問に答えるのを手伝ってもらいました。突然教室の先生が2人になる。ちょっと変な塾ですが、そこがやっぱり我が塾なのでして。「人使いが荒い・・・」と言いながら、ついつい本気で教えてしまう八木先生なのでした。

2010年7月19日月曜日

本屋で

職業柄、本屋には頻繁に顔を出します。小中高の学習参考書目当てです。
学参売り場はたいてい児童書と隣り合っている書店が多く、どちらも書架が大変乱れていることが多いように思います。児童書は幼い子供たちが本を扱うのでまあ仕方ないかと思いますが、学参売り場は事情が違います。小中学生のものを見ているのはたいてい父親か母親、高校のものは高校生自信です。昨日も高校生か浪人生と思われる人の横で本を探していました。本の扱いがひどいなあとなんとなく感じたのですが、熱心に本を探しているようで、なかなかそこから動きません。ぼくもその棚の本に関心があったので、しばらく、他のところへ行って後でまた見に来ました。
悲惨な状態でした。棚の本は乱れ、彼が見たと思しき本の表紙は折り目がついており、ぼくの探していた本も表紙に折あとがついていました。
図書館の本がひどい状態で、線が引いてあったり、切り取ってあったりしているという話はニュースで見たことがあるのですが、本屋の状況もかなりのものです。
結局買わずに帰ってきました。

2010年7月16日金曜日

数学と言えども社会性がある。

中1の生徒に文字式の扱いを教えています。そのとき、いつも気になるのが、a÷(-2) のようなものです。分数にするわけですが、マイナスの記号をどこにつけるかです。
(-a)÷2 ならほとんどの生徒がマイナスを分子につけます。同様にすると a÷(-2) ではマイナスを分母につけることになります。ところが、多くの中学校でこれを間違いにします。分母にマイナスを書いてはいけないようなのです。符号の計算を先にして、分数の前にマイナスを書かせるように指導しているのかもしれませんが、本当の理由は分かりません。

間違えになるいじょう、生徒にはマイナスは分母に書かないようにと指導することになります。理由を聞かれることもあります。「学校でバツになるかもしれないから」と答える以外に理由はありません。この理由は数学上の理由ではないのです。何か分からない社会的な要請です。僕自身は分母にマイナスがあっても良いという立場なのですが・・・

同じようなことは時々あります。中3で無理数を扱うとき、最後の答えを有理化するかどうかです。
「答えは必ず有理化するんですか?」と尋ねられると「テストのときは必ずしておいて」と答えることにしています。そして、子供たちは有理化することを当然だと考えるようになります。その結果、数Ⅲで複雑な無理関数の増減を調べるようなときも有理化にこだわって失敗していきます。数Ⅲでは有理化は必要性が無い限りしない方が良いのです。最終的な解も少し複雑だと有理化しないで答えることになります。「どういうときは有理化しないで、どういうときは有理化して答えるのですか?」という問いには「それは数学上の問題ではなく、社会的な問題です。君は人の家にいったとき、帽子を被ったまま?それとも帽子を脱ぐ?それと同じだよ」と答えます。

最近も数列の和を求める問題で、「答えは因数分解の形ですか?それとも、展開の形ですか?」という質問がありました。答えは「君が美しいと思う方にしておいて」でした。つまり、どちらでも良いのです。

数学は厳格な学問ですが、本質的でない部分ではもっと自由度があってよいと思っています。

2010年7月11日日曜日

怒りたいときに笑ってみる

以前友人が『バイク止めようかな』と言い出しました。理由を聞くと、車の運転に頭に来ることが多く、怒る機会が増えているからということでした。

確かに、車の運転をすると、歩行者や自転車、そしてバイクのマナーの悪さや判断の悪さにむっとすることが多くあります。逆にバイクに乗っていると、車のマナーや判断の悪さにむっとすることが多くあります。友人同様に僕もその事は感じていました。そして、そのとき怒っているとどんどん自分が嫌な人間になって行きそうで何とかしようと考えました。

それは     怒りの感情を感じたら、笑って見せる。     ことです。

上手くできるかどうかわかりませんが、今、実行しています。

先日、塾に向かう途中、コンビニから出てきた車に危うく轢かれそうになりました。こちらは自転車に乗っており、相手の車の運転手が反対方向の車に気を取られ、こちら側を良く見ていないのは分かっていました。幸い、車のバンパーが僕の右足に触れたところで停まったので事なきを得ましたが、足の骨を折るくらいは覚悟しました。

運転者を見ると、40歳くらいの女性で車の中で両手を合わせ、こちらを拝むようにして謝っていました。ぼくは緊張した顔を力ずくで無理やり笑顔にして、何事も無かったようにその場を去りました。心臓はバクバクしていましたが。

だいぶ修行ができてきたというところでしょうか?

そういえば、運転していた女性はひたすら謝っていたのですが、顔が笑顔でした。何か失敗したときに、照れ隠しでする笑顔のようでした。

これで良かったのかな?と思っています。

2010年7月7日水曜日

体で覚える

中学生と形容詞や形容動詞の活用を覚えるとき皆で声を出して、リズミカルに唱和します。

かろかつ く~う い~い~けれ   だろだつ で~に~ だ~な~なら

A君がこれを だろだつデニーズだ~な~なら と改作しました。ごろが良いので僕も使っています。こうして覚えたものは長く記憶に残ります。

車の運転をしていて、赤信号で止まったとき、突然、頭の中に 
ず~ざら ず~ざり ず~ぬ~ざる・・・・ 
という高校時代に皆で唱和した助動詞の活用が流れたことがあります。高1の時、古典の授業の初めに助動詞の活用をクラス中で叫ぶことが日課になっていました。その頃、反抗期真っ盛りでしたから、ばかばかしくてやってられないとばかりに、あまり熱心ではありませんでした。しかし、他の事はほとんど忘れてしまった今も活用だけは記憶に残っています。

同様なやり方を色々なところで利用しています。三角関数で サイン・コサイン・タンジェントと唱えながら、体を使ってその正負を調べる方法があります。とても便利なので、必ず生徒に教えます。彼ら(彼女ら)が何十年かたって、三角関数のほとんど全てを忘れたとしても、踏み切りで通過する電車を眺めているとき、台所でキャベツを刻んでいるとき、突然『サイン・コサイン・タンジェント』と叫ぶことがあるはずです。

2010年7月3日土曜日

公立高校と私立中高一貫校の差 ~物理編~

公立高校と私立高校の違いについて、僕からも一点書いておこうと思います。

僕は高校生に物理を教えているのですが、物理でも公立高校と私立中高一貫校では差が出ます。
大学受験のことを考えると、高校3年間しっかりと物理を教えたいのですが、物理の問題を解くためには、二次方程式と三角関数が解けないと話になりません。
私立中高一貫校では、中学3年の時に高校1年の数学をやっているので、高校1年の時から物理を教えることができます。
僕が受験生の頃を振り返ると、高校2年の時は学校の授業のみで物理を勉強したものの、摩擦あたりから全く分からなくなり、ほとんど授業内容が頭に入りませんでした。
結局3年の時にまたゼロから始めることになり、そのため、物理の成績がずっと伸びず、何とか自分でもそこそこ解けるようになってきたかなと実感できたのは、受験直前の1月頃でした。

その後、物理を教える立場になり、これは僕だけの問題ではなく、公立高校生のほとんどが抱える問題なんだと気づきました。

何とか悠々館の塾生には物理を早めに勉強させられるように、高校1年の数学をなるべく早い段階で教える、物理の授業の最初に物理に必要な数学を少し教える、など、何かしらの対応を取りたいと思っています。

物理は解き方とかけた時間が成果に出やすい科目だと思います。
良い解き方を覚え、早くから始めれば、割りときちんと成果が出ます。

何とか悠々館の塾生にとって、物理が弱点ではなく、武器になるようにさせてあげたいと思っています。

2010年7月2日金曜日

公立高校と私立中高一貫校の差

ある日、化学のことで他の先生の意見を聴こうと思い、「化学分かる?」と聞いたところ、

「あっ、化学はちょっと・・」。
もう1人の先生も同じでした。
彼らは2人とも平塚江南から早稲田理工というルートなのでこれは意外な反応でした。

そのとき、ふと考えたのはこんなことです。

現在、公立トップ校の場合、高1で化学Ⅰの理論の部分を学びます。残りの無機と有機そして、化学Ⅱは高3になってからやります。高2になると物理が始まりますから、しばらくの間、化学をやる余裕は無いのです。そして、高3になってまた化学をやるころには理論の部分もすっかり忘れて初めからということになる可能性もあります。というか、そうした人を沢山見てきました。数Ⅲや英語をやりながら、物理、化学の2教科をものにするのはなかなか大変なのです。

一方、私立中高一貫校では、数学が公立より約1年分速く進んでいます。これは20年前の公立と同じ速さです。その結果、高1で物理も化学も学習することができます。

その差が、大学合格実績に如実にあらわれています。

2010年6月30日水曜日

積み重ねていくうちに

「あの先生は昔も頭が良かったから、僕らの悩みがわからないんだよ。」


塾の子供の持ってくる話の中には、たまにこんな内容があったりします。
たしかに自分が中高生だったときを思い出すと、何がわからないのかわからないと言った顔をする先生や、人の考えも聞かない頭の固い先生もいたなぁと思うものです。



しかし今、僕も複数の生徒を持って教える立場にあります。
そしてこの身になってはっと気付いたことがありました。

それは自分がかつてよりも大分押し付けがましくになっている、という事です。
元々主張が強い方ではなく補佐的な立場が落ち着く人間であった僕にとって、これは以前からは考えられない事でした。

もちろん今までも自分の常識と言うか、独自に作った考え方にはかなり頑固な方でしたが、それを他人に強いる事など殆どなかったように思います。



子供の頃と違って、最近は他人から丁寧に教えてもらうといった事が殆どありません。
自分で考えたり調べたり、例え教えてもらっても大枠だけだったりと、行動の大体は主体的な部分が占めています。結果、自分だけの小さな世界が出来上がっていたようです。

自分で言うのもなんですが、小さい頃は素直で受け入れる性格が学業の発展に繋がっていたと思っています。子供の頃は覚えが早いと言いますが、こういった所も要因なのかもしれませんね。



「先生は頭も良いいしわかりやすいし完璧だね!」



そんな事を言ってもらえるようになるべく、もっと子供達を等身大で見ていかねばと決意を新たにする今日この頃なのでした。

2010年6月28日月曜日

NASA宇宙飛行士との会談

山崎直子さんを含む、今年4月に国際宇宙ステーションに滞在した7人の宇宙飛行士との会談に参加する機会をいただき、今日米国大使館へ行ってきました。

それぞれのプレゼンテーションがあった後、宇宙飛行士の方々と個人的にお話させてもらえたので、いくつか質問してみました。

宇宙飛行士という特殊な職業に就いている方々ですから、周りに流されず自信を持って自分なりの決断、将来設計をしているはずです。どうしてそのようにできるのかと山崎さんに尋ねたところ、
「宇宙に行きたい人はたくさんいる。その中で自分が選ばれるためには他の人と同じことをしていてはだめ、常に自分オリジナルな考えを持っている」
「人生は一度きり。大抵の場合、やって後悔するよりも、やらなくて後悔する事が辛いと思う。だからチャレンジするんだ」
とおっしゃっていました。

最近では「はやぶさ」が無事帰還したことで、日本の航空宇宙技術が注目されています。自分たちの次?の次の次?の世代には皆が宇宙旅行に行けるようになるかもしれません。

2010年6月26日土曜日

藍色を英語でなんと言うか?

「藍色って英語でなんと言うの?」という質問がありました。
それに対して、「ピッタリした英語は無いなあ」と答えました。

藍色に近似した色ということであればダークブルーとかインディゴブルーということになるのでしょう。ただ、藍色は浅葱色のような薄い色のものから紺色のような濃い色のものもあります。さらに日本独特の染色の技術と染める布の感触がその言葉には付きまとっています。

「インディゴブルーの暖簾(のれん)」とか「藍色のジーンズ」というのはどうも似つかわしくありません。つまり、藍色とは藍によって染められた特殊な工程を経て作られた色を言うので、色そのものが同じかどうかは本質的ではないのだと思います。

専門の画材屋に行くと様々な青があることに驚きます。さらに、その原料によって微妙に雰囲気が異なります。同じ青でも油絵の青と水彩の青、テンペラの青ではやはり別ものです。そうした文化や伝統を背負って言葉はできています。全ての日本語が英語になるわけではないのです。

藍に関しては有名な「出藍の誉れ」ということわざがあります。「藍は藍より出でて、藍よりも青し」です。藍染は初めは薄い浅葱色ですが、何度も繰り返すとだんだん濃くなり、最後は紺色になるわけです。それが転じて「できの悪い教師から、できの良い生徒が生まれる」の意になります。

沢山の「出藍の誉れ」が塾から誕生しますように。

2010年6月24日木曜日

選択する手つき

電子辞書でappleを引くと、aを打ち込んだ瞬間に幾つかの単語が画面に出てきます。その中にappleが無ければ次の文字pを打ち込み、画面に出たものからappleを探すことになります。選択肢があってそこから目的のものを選ぶわけです。

センター試験を筆頭に受験の多くがマークシートを利用したものになっています。設問があり、その解を選択肢の中から選ぶわけです。設問に対して、自分の答えを提示するのではありません。選択肢がどのようなものであろうと、その中から選ばざるを得ません。通常の設問は『次のうち最も適当と思うものを・・・・』というようになっています。そこで、消去法による解答が流行するわけです。

テストのように正誤を問われる選択は別ですが、そうでない選択も沢山あります。今日何を食べるかとか、誰と遊ぶかとか、どの職業を選ぼうとか。そうした、ものを選ぶ手つきに人間の個性が出てきます。そんな選択を次々にして現在の自分があるのです。

さて、人生には選択肢の無い設問が満ち満ちています。現在の秀才たちが選択肢の秀才であることを考えると、彼らが未来をどのように切り開くのか、あるいは、切り開けないのか。気になるところです。

2010年6月20日日曜日

分け入っても 分け入っても あおい山 (山頭火)

先日八木先生と物理の話しをしていたときのことです。力学から物理が始まる場合、摩擦力をやるあたりで、分からなくなる人が多いのではないかという話になりました。あるいは、相対速度で既に躓く人も多いかもしれません。

高校の数学、理科についてはある程度生徒が困難を感じるところがあります。

化学では、物質量(モル)を乗り切れず脱落する人が夏休み前に沢山登場します。化学が苦手な人はほとんどここで落伍します。
数学は以前は軌跡が数Ⅰでしたから、そこで大量の脱落者が出ていました。どんどん数学が易しくなり、今の数Ⅰは昔の中学レベルですから、あまり、決定的な場所は見つけられません。強いて言えば絶対値の扱いや、二次関数の最大・最小が山場かもしれません。

そうした山場が時々出てきます。それを一つずつ、上手くやり過ごしていく。そうするとまた平坦な道になる。また、山に出会う。ちょっと頑張る。また、平坦になる。そんな繰り返しです。やがて、山の乗り越え方も上手くなってきます。

壁にぶつかったら、そこで少し頑張ってみます。ひと山越せば、また別の展開もあるのです。

今頃、化学で壁にぶつかっている多くの高校生がほんの些細なことで化学から離れていかないよう願っています。

2010年6月18日金曜日

中間テストが終わって

定期テストの結果がほぼ出揃いました。素点だけ見るとほとんどの人が点数を伸ばしましたが、その中にほぼ全教科でかなり点数が伸びた生徒が数人います。そうした子を見ていていると、何か変わったなと感じます。心の中に変化が起こっているようなのです。そんな内面の成長が爆発的な成績の伸長に大きく関係しているのです。

中学受験は「精神年齢の勝負」といわれます。遊びたい盛りに勉強漬けの生活をするわけですから、それを受け入れることができる子とできない子の差はとんでもなく大きなものです。いわゆる頭の良し悪しよりもその部分の差が結果に大きく影響します。

社会全体がマニュアル化している現在、勉強や受験もその限りではありません。ますます、小手先の技術に走るようになっています。そうした技術は誰にでも有用であることを前提にしますから、最も計りづらい個々の内面的な部分を捨象します。その結果、「偏差値40からの東大合格」という広告を見て『誰でも』偏差値40から東大が受かると錯覚する人が出てきます。偏差値40から東大合格する人には間違いなく内面に何かが起こっています。それは予備校の授業で技術的(マニュアル化で)に与えられるものではありません。

勉強がどれだけマニュアル化しても、その根底の部分を支えるのは今も昔も心の部分です。内面の成長無しに、大きな成績の変化はありません。その部分を、どれだけ、そしてどのように刺激し続けるか。それは教える側の課題です。

2010年6月17日木曜日

なぜ塾をやっているのか

今日も授業の後に塾長といろいろと話をしました。

もうすぐ夏休みが来るので、塾としてはアピールしたい季節です。
悠々館としてもご多分に漏れず、どうやって新しい塾生を増やすかをテーマに頭を捻らなければなりません。
そんな話をしつつ、今日はもう少し根源的なことを書きたいと思います。

なぜ塾をやっているんだろう、と。

僕は塾で生徒を教えることが好きです。
僕以外の講師陣も教えることが好きです。
塾長は多分僕たち以上に教えることが好きだと思います。

じゃぁ好きなだから仕事にしているのか、と。

それだけでもないんですよね。
好きだからだけでもなく、そこには別の理由もあるはずなのです。

はてさて、なんで塾をやっているんだろう。

お金を稼ぐためという理由はもちろんあります。
でもそれはきっと、目的ではなく手段なんですね。

例えば日本全体を幸せにしたいという高い志を持った社長がいたとして、志を実現するために頑張ったとする。
でも利益が出なければ一番身近な"社員たち"を不幸にしてしまうわけです。
志がどうのというよりも現実的に身近な人が不幸になってしまう。

じゃぁ利益を出すために仕事をするのか、と。

それもやっぱり違うわけです。

金を稼ぐことを目的にしてしまったら、それは空虚です。
僕が思うに、利益は目的を達成するための手段なわけです。

じゃぁ、塾をやっている目的はなんなんだ?と。

これについては、この一言が一番言い表してくれていると思います



財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上
                            元楽天ゴールデンイーグルス 野村監督
  

学校でも塾でも、講師をやっている人は、きっと人を育てるのが好きなはずです。
ある生徒が昨日できなかった問題が今日できるようになって、嬉しそうな顔をする。
そうした小さな積み重ねが、彼の人生で積み上がっていって、やがて大きな体験として残っていく。

学校だけではなく、悠々館で教えたことが彼の人生に何か意味を残せたら、それはきっと大いに嬉しいし、日本全体に意味のあることのはずです。

やはり生徒を育てたいという想いこそが、塾をやっている理由なんだろうなぁと思うのでした。

悠々館を巣立った生徒が社会で活躍して、そして再び塾で集まって、みんなで旨い酒が飲めることが、今の僕や塾長の一番の夢です。
(ある意味、叶っているんですけどね。)


ということで、今週の詩・句を更新しました

やった!

日本がカメルーンに勝ったその日、もっと嬉しいことがありました。

数学が決して得意ではないY君が、中間テストの数学で塾生の最高点を取ったのです。
今までの数学の点数と比べると天と地ほどの差なのですが、その予兆はありました。
テストが近づいた頃、「できるようになるので、塾に来るのが楽しみ」というようなことを長尾先生に言ったらしいのです。そう言えば、テスト前日の授業後、八木先生に延々と理科を教えてもらっていたのも彼でした。

その晩、彼が送ってくれたメール「先生、数学・・・点でした」を何度も見ては、酒量が増えるのでした。

2010年6月14日月曜日

丸付けについて

最近こんなことがありました。
ある中学生が「学校のワークを提出するとき、丸付けをしてなかったので内申が下がるかもしれない」と言うのです。「丸付けまでして、提出するようにという指示があるのにしなかった」のです。

実はその子に「丸付けなんか必要ないから、しっかりとバツ付けをするように」と指導していました。そのため、解の確認はしたものの、丸は付けず、間違えの訂正だけ赤でして学校に提出したのでした。

僕は丸付けより、バツ付けが重要だと考えています。小学校低学年はともかく、中学以上は丸付けを止めてバツ付けにすべきだと。その理由は”問題が解けたことの確認が重要なのではなく、できなかった問題の認識こそ重要”だからです。

小学生は丸がつくことに喜びを感じますから、丸を派手につけることに意味があります。しかし、大学受験生が数学の問題にいちいち丸付けをしていたとしたら、余りに幼い感じがします。丸ではなく、しっかりと間違いをチェックする・・・そんなバツ付けこそ重要です。

もし、上記の中学生の内申が下がったらその原因のほとんどは僕にあります。と言うのは、テストの点、ワークの内容、その他はほぼ完璧だからです。学校のワークだけは丸をつけるように指導すべきだったのでしょうか。いろいろ反省があります。

2010年6月13日日曜日

学校でちゃんとやってる?その1

中間テストが終わりました。かなりの補習をしたので、結果が楽しみでもありますが、成果や如何に?

高得点をとる人とそうでない人の二つに大雑把に分けるとして、その一番の違いは能力の差とか勉強方法の差というものによるわけではありません。
勉強以前の問題、強いて言えば内面の差とでも言えるものです。

内面の差が表面に出るのは次のようなケースです。うんと、具体的に書くと。
①勉強中に頬杖をつく。
②椅子にきちんと座れない。
③鉛筆等をよく忘れる。
④『めんどくさい』と頻繁に言う。
⑤質問を聞き返す。(キチンと聞いていない)
⑥言い訳が多い。
⑦学校の授業で何をやったかを言えない。
⑧同じ間違えを繰り返す。
⑨宿題や勉強をごまかそうとする。
⑩勉強中に左手が使われない。
⑪等など

特に⑦です。学校での学習をしっかりしなければなりません。
定期テストに1から10まで出題されるとします。
学校で1から7まで身に着けていれば残り3をテスト前にやればよいのです。
学校で1から3までの人は残り7をやることになります。現実的には7から10はできないままです。
学校で0の人は、3までやるのが精一杯かもしれません。

今日、自分が学校でちゃんとやったか確認する一番簡単な方法は、各教科何をやったか簡単にノートに記入することです。数学:連立の代入法。英語:レッスン2、理科:湿度の計算、等を書いて蘇らせることです。何をやったかすぐ思いつかない場合は授業の半分も集中していなかったと考えてよいでしょう。
毎日、最も多くの時間を学校で過ごすわけです。仮に50分授業として、40分集中しているA君と20分集中しているBさんがいるとします。一日5時間授業として、二人の学習量の差は20×5=100分(2コマ分の差がついています)。これがひと月で約100×20=2000分(40コマの差です)。この40コマの差は塾の授業の一か月分よりもっと多い時間です。A君が塾に行かなくても良い成績をとるとして、当然のことなのです。こんな当たり前のことが中学生は案外わかっていません。

2010年6月11日金曜日

きっと講師の熱意は生徒に伝わると思うんだ

教えている中学生が今日、明日とテスト期間です。

僕は普段数学と英語を教えているのですが、今はテスト期間なので、今日は明日のテスト科目である、数学と理科を教えました。

数学は連立方程式。
理科は天気と湿度。

普段は理科を教えていないので、最初は探り探りでしたが、途中から熱が入ってきて、湿度について分かるまで何度も何度も何度も何度も教えました。

計算式自体は簡単なのですが、
・空気中に水が水蒸気となって溶けている
・温度が上がるほど、空気中に溶けられる水蒸気量が上がる
・ある気温で溶けられる水蒸気量を飽和水蒸気量という

といったことを本当に理解できるまで、何度も何度も教えたのです。

気がつけば授業の時間は終わり、1時間以上延長していたのですが、しつこくしつこく教えました。

生徒にも熱意が伝わったからか、もしくはテスト前だからか分かりませんが、「何とか理解したい」という気持ちが伝わってきて、僕もさらに熱が入ってしまいました。

生徒はきっと分かりたいはずなんです。
とはいえ、生徒によって理解する速度に違いがあり、授業の時間数も限られているので、どうしても分かる前に次の単元に進んでしまうのです。

でもやっぱりなんとか教えたい。
問題を解くためのテクニックだけではなく、そもそもの話を理解してもらいたい。

そう考えてちょっと熱くなってしまいましたね。

教える立場になると分かるのですが、"勉強ができるかどうか"よりも、"本気で分かりたいと思っているか"の方が大事です。
「先生、俺はこの問題が解けるようになりたいんだ!でも分からないから教えてくれ!」と言われたら、なんとしても分かるまで教えたいと思うものなんです。

それは生徒の熱意と講師の熱意の両方が必要なので、毎回そういう空気になるわけではないのですが、今日は少しそういう空気が流れたような気がします。


明日のテストで今日教えたことがどの程度できるか分かりませんが、来週の僕の授業の時に、一人でも多くの生徒が良い顔をしているといいなぁ。


みんな頑張れ!!

2010年6月7日月曜日

6月4日金曜夜

先週金曜日から土曜日の中2補習の様子です。

4日金曜日
午後4時頃~7時頃 補習
午後7時~9時半   通常授業
午後9時半~12時  補習
5日土曜日
午前9時~12時   補習
午後2時半~5時     補習

休憩を入れながらの長時間学習でした。忘れないうちに反省をしておきたいと思います
①4日は良好。
②塾で仮眠を取るとき、レジャーマットかダンボールのようなものを持ってきた人はそれなりに休めたと思いますが、椅子を集めて作ったベッドに寝た人は熟睡できなかった。生徒が楽しみにしていたので実行しましたが、家に帰らせるべきでした。
③疲れからか5日午後は集中力を保つことが難しくなっていた。

金曜夜は、授業をしている教室の反対側の教室で八木先生と長尾先生が宿題管理について熱い議論を深夜までしていました。

日曜日に提出物等が終わっていれば(いるはずです)、今日からラストスパートです。

父兄の方々から差し入れをいただきました。ありがとうございます。

趣味その1

中学生と話していたとき、「ぼくはミステリーが好きなんだ」と言っていました。それを聞いて、「あっ。そういえば、僕もミステリーが好きだったんだ。」と思い出しました。

僕のミステリー好きは小6の夏に始まり、大学1年の夏に終わります。明確に初めと終わりがあります。

初めは金沢での小学時代です。家の隣に木造の古い児童図書館がありました。そこでA.A.ミルンの「黄色い部屋の謎」を読んだのです。ミルンは熊のプーさんを書いた作家です。表紙を開けると赤いセロファンのページがあり、その次のページに多分、和田誠のイラストが書いてありました。それをみるだけでなんだか胸が苦しくなったものです。

そのひと夏、コナン・ドイル、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティ、ヴァン・ダイン、ディクスン・カーといった著名な作家の作品が子供用に書き直されたシリーズ(30冊程度?)を毎日図書館の閲覧室の長いすに寝そべって(横になって読んでいても良かったのです)読んでいました。それまでの夏休みは毎年カブトムシとクワガタムシを捕まえることや川遊びに費やしていたのに、大きな方向転換でした。勉強をした記憶は何もありませんから、今の子供に比べると幸せな?小学生でした。

それから中・高・大と外国のものを中心に驚くほど沢山のミステリーを読みました。

旅にでるとき、下宿に置いてある大量の本を処分しました。エド・マクベインのシリーズを神田の古本屋で売って、そのお金で、友人とカツ丼を食べ、旅に出たのです。それ以来ミステリーを読んでいません。


2010年6月4日金曜日

限界の外

中間テストが近づいてきました。
今日の中2の授業は深夜12時までの予定です。その後、家に帰る人と塾で仮眠をとる人に分かれて、翌朝9時から授業開始、途中休憩を挟んで、夜まで勉強を続けようと思います。
以前、高校生の授業をほぼ徹夜でやったことがあります。そのときの話をしたところ、「俺たちもやりたい」ということになったのです。
中学生なので、徹夜は無理として、このような形になりました。

長時間の勉強が本当に効果的なのか疑問はあります。
それでも、こうした試みをする一番の理由は「自分の限界を知って欲しいからです」 もっと正確に言うと「自分の限界が自分で思っているよりもっとずっと大きいことを知って欲しいからです」

最近、ある進学高校の先生と話をしました。「センターまでは団体戦なんだ」といっていました。皆で一緒に勉強し、勢いでセンター試験までは行ってしまう。2次試験から個人戦だということのようです。確かに、団体でやると1人では大変なことが軽くできてしまうことがあります。長時間の勉強はそうした団体戦でもあるわけです。

人生を語らず

フォーク歌手、吉田拓郎が「人生を語らず」というレコード(CDではないです)を出した頃、ぼくは人生を語りまくっていました。それから、だんだん人生を語ることをしなくなり、最近はめっきり語る機会が減っていました。

先週、中学生の授業中にひょんなことで勉強の意味と人生の意味を語り始めました。それは、中学生には難解な話だったと思うのですが、思いのほか皆、聴き入っていました。
若い子には通じないと思っていたのはこちらの思い込みだったのかもしれません。折を見ては彼らに語りかける。それは幾らか早く生まれたものの使命のような気がします。

数学以外に何か少しでも彼らの心に残れば・・・・望外の喜びです。

2010年5月29日土曜日

講師紹介のページを更新しました

講師紹介のページに、長尾先生の自己紹介を追加しました。

ついでに、一番上の「今週の詩・句」も変更しました。


努力がすべて報われるとは言わないが、成功したものは皆すべからく努力している


森川ジョージさんのボクシング漫画、「はじめの一歩」に登場する鴨川会長の名言です。

2010年5月28日金曜日

京都

修学旅行から帰ってきたNさんがお土産の八橋を持って来てくれました。たくさんあったので、生徒たちにもおすそわけしました。

ヨーロッパから帰ってきた後、もっとも日本的と思われるところに住みたいと思い京都に1年ほど住んでいました。八橋を食べると四条川原町辺りの風景や、京阪電鉄の電車や、いろいろなものがあっというまに蘇ってきます。

それから随分京都に行っていません。イチゴの入った八橋は初めてでした。京都も変わったんだろうな。

2010年5月26日水曜日

勉強ができない理由

YOUYOUKAN NEWS 6月号を作っていました。その中で、『勉強ができない理由・中学生の場合』として、思いつくままに箇条書きにしました。内容の詳細はYOUYOUKAN NEWS を読んでもらうとして、
今回は以下のものを書いておきました。
①字が汚い
②理屈が多い
③直ぐにあきらめる
④手を動かさない
⑤めんどくさいという
⑥詰めが甘い
⑦ノートが汚い
⑧ノートが美しすぎる
まだまだあります。こんなのもあるという人教えてください。
ぎゃくに『勉強ができる理由』も募集中。

2010年5月23日日曜日

学力低下の結果?

日本人のアメリカ留学者数が大幅に減っているというテレビ番組を見ました。
その理由が何なのかいろいろ検討していました、
①少子化・・・しかし、大学生の数は減っていない。
②不況 ・・・しかし、以前の不況のときも留学者は今よりずっと多かった。
等々。

その中で、気になったのは大学生のレベルの低下というものでした。

少子化にもかかわらず、大学入学者数はほとんど変わっていないようです。
その結果『大学生の学力が低下し、英米の大学入学に必要な、日本人にとってはかなり厳しい英語のテストに受からないのが一因ではないか』というものでした。
語学学校等への入学を留学者数に入れているかは言及がありませんでした。

この分析は桜美林大学の副学長(アメリカ人)が語っていたものです。

ちょっと気になる番組でした。

2010年5月21日金曜日

脳体力

成績の良い生徒とそうでない生徒の一番の差は体力の差です。
それは『脳体力』とでも呼べる、頭の持久力、頭の瞬発力の差です。

学習時間が少し長くなるとその差が顕著になってきます。

塾の高校生の授業は約2時間休憩を入れずに行ないます。休憩をするとしたら、教える側が疲れたときのみです。1年に1度もありません。その間、頭と鉛筆を動かし続けます。そして、脳はその活動に対応できるように鍛えられていきます。

学力の異なる人が一緒に勉強すると、その差が良く分かります。長時間の授業をすると一人ずつ脱落していきます。そのとき集中力を無くす順番と成績の順番とが割合きれいな相関を持っています。

この脳体力は持って生まれたものとは関係ないようです。それは、日常の頭の使い方、学習量によってぐんぐん育ってくるもののようです。

いつも生徒に言っていることですが、
一年間『筋トレ』をした人とそうでない人の体は明らかに異なってくるはずです。
一年間『脳トレ』をした人とそうでない人の脳も明らかに異なってきます。
問題はそれが体力と違い目に見えないことです。目に見えなくともその違いは明らかです。

2010年5月20日木曜日

分数の計算ができるようになるまで

第一日:分数の足し算を学ぶとします。
①理解する(わかる)・・・・まず通分して、その後~とするのか。なるほど。分かったぞ。    
②再現する(できる)・・・・教わったことを自分でやってみます。失敗しながらなんとかできました。
③習熟する(なれる)・・・・似た問題を繰り返しやって確実にできるようになりました。

第二日:分数の掛け算を学ぶとします。
①理解する(わかる)・・・・分子は分子、分母は分母で掛け算をし、約分もするのか。ふむふむ。
②再現する(できる)・・・・約分をし忘れた。先に約分してもいいの? 分子同時約分しちゃった~
③習熟する(なれる)・・・・問題演習を繰り返し、できるようになりました。

第三日:分数の割り算を学びます。
①理解する(わかる)・・・・割る分数を逆数にしてかけるのか。約分するんだ。掛け算と同じか。
②再現する(できる)・・・・ひっくり返せば掛け算だから簡単簡単。ちょちょいのちょいと。
③習熟する(なれる)・・・・もう楽勝。すいすい。どんどんできるよ。

第四日:分数全体の復習をします。
えっ? 足し算ってどうしたっけ? 分母と分母を足すんだっけ? 約分するの?
割り算だったらできるんだけど。どっちをひっくり返すの?分からなくなちゃった。・・・
①理解する・・・・また、一通り教わりました。
②再現する・・・・なんとか、どの計算もできる感じです。
③習熟する・・・・もう、大丈夫。

一ヵ月後。分数の計算ができるというわけではありません。他の単元を勉強しながら、復習を続けることになります。

分数の計算ができない大学生という本があります。難関大学(KO大学)の学生でも分数計算ができない人が沢山いるということです。事実だろうと思います。

2010年5月19日水曜日

中2の英語の授業で中1の復習を始めました

今年度から週に1日、木曜日に中学2年生を教えています。
教科は数学と英語。

数学はそこそこやる気があるのに、英語の授業になるととたんにやる気がなくなる生徒がいます。
どうやら、中1の時の英語でつまずいて以来、英語が苦手という意識が生まれてしまったようです。

英語の授業になると、あまりにもやる気がなくなるので、このまま中2英語を教えていっても成果が上がらないと思い、授業の3分の1くらいの時間を使って中1英語の復習を始めました。
他の生徒も中1英語が完璧ではないので、良い復習になると思います。

始めてからもう4回ほどになりますが、だんだんとどこでつまずいたか分かってきました。


① ( ) you enjoy yesterday ?
② ( ) you happy yesterday ?

これらの括弧に単語を埋めてください。




中2に英語を教えていて、この違いが分からない生徒が多いことに気づきました。



正解は、①はDid、②はWereですね。

理由は、①のenjoyは一般動詞だから、②のhappyは形容詞だから、というものですが、この違いが分かっていない生徒が多い。

さて、この違いをどうやって教えていったら良いかということを考えています。


数学のように、同種の問題をたくさん解かせれば良いのでしょうか。


うーむ。。。

資源ごみ

塾の本が増えすぎたので少し処分しました。指導要領が変わるたびに買い換えた問題集等で古いものを資源ごみにしました。200冊位ですが、まだまだ不要な本があります。

その中にぼくが作った高校数学問題集、その名も『なめんじゃねえ数学Ⅰ・Ⅱ』と高校受験用問題集『後悔先に立たず数学・英語』がありました。後者は有麟堂の学参ベスト10に入ったこともあります。ちょっと売れたのです。平塚駅のさくら書店に置いてあるのをそっと隠れて見に行ったものです。平場に置いてありましたからそれなりの反応があったのでしょう。立ち読みしている中学生の後ろから『買ってくれ!』と念を送ったのですが、通じませんでした。

まだ、パソコンは8ビットで、ディスプレーは白黒。5インチのペラペラのフロッピーディスク。それを駆使して、自分で作ったのでした。最近、ソニーが3.5インチのフロッピーの製造をやめるというニュースがありました。一時代も二時代も過ぎたような感覚です。

結局、自分の作った本は捨てることができませんでした。

2010年5月18日火曜日

漢字は書けなくても読めればよい?

神奈川の高校入試問題はそのほとんどが記号を選ぶものです。英語も単語を書くような設問はほんの僅かです。独自入試校でも事情は変わりません。更に、センター英語も似たようなものです。点数を取ることだけを考えると、英単語は意味が分かれば十分で、書けなくても良いのかもしれません。

最近の単語帳の流行は書かずに覚えるタイプのものが増えたことです。書いて覚えるのは時間の無駄だとさえ書いてあるものもあります。

書いて書いて、書きまくって単語を覚えたきた者としてはおいそれと納得できることではありません。ある程度基礎のある者(高校生程度)は別として、初学者は書く作業に十分な時間をかけるべきだと思うのですが、どうでしょうか?

i pad が日本でも販売され、電子書籍の時代に入っていくようです。本の余白にちょっと漢字の練習をする。それがぼくのやり方でした。どんどん書く場がなくなっていくようです。

2010年5月14日金曜日

ツイッター始めました

悠々館の先生たちとツイッターを始めました。
どうも全体像が掴めなく困っています。
メールでもないし、ブログでもない。誰に話しているのかよく分かりません。
真夜中の海岸で海に向かって呟いているような感じです。
うーん・・・ わからん。
                       つぶやき五郎

治りたがらない病人

作家三島由紀夫が『治りたがらない病人は病人の資格がない』ということを言っていました。
体を鍛えることによって解決するような問題を病気のせいにするなというわけです。
そして、肉体を鍛え、痩せぎすの文化人から、筋骨隆々とした武人に変わっていったのです。

『やればできるのに・・・』といわれるタイプの生徒がいます。本人も自分の能力にある種の自信を持っていたりします。『やればできるのだから、今やらなくてもよい。その気になればできるのだから・・・』と漠然と思っているのかもしれません。それが自分自身をごまかす理由になっているようにも思います。

数学の表現を使えば、
『やる ならば できる』という命題の裏の命題は『やらない ならば できない』です。
この裏の命題は真であるように思います。

自分が『治ろうとしている病人』なのかどうか考えてみる。それなりにエネルギーを要することですが、考えてみる価値があります。

2010年5月11日火曜日

月はなせ追いかけてくるのか?

中1の生徒を相手に宇宙論を展開しました。こういう話をするととても真剣に聴き入っています。以前、相対性理論の端緒を話したときもそうでした。

今日は生徒の『何で月はどこまで行っても追いかけてくるの?』という疑問に答えるところから、脱線したものでした。理科の時間をだいぶ潰してしまったのですが、話してよかったと思っています。

私は20代から30代にかけて、たくさんの夜を寝袋の中で過ごしてきました。ヨーロッパで、中東で、インドで、そして日本で。
満点の星空を望み、どこからか聞こえる犬の遠吠えや、風に震える草木のざわめきに怯えながら、『あーっ。俺って、随分ちっぽけだな』と思ったものです。

私も生徒も宇宙の深遠さ、自然の雄大さ、世界の神秘の前でとても小さな存在です。おのずと謙虚になる一瞬を持ちます。これはとても大事なことです。
そして、どのような勉強であれ、謙虚でなければ得るものは少ないといつも思います。

2010年5月8日土曜日

5月6日 先生全員が集まって。

勉強法や勉強の心構えなどについて中学生と話す機会を持ちました。個人的にはいつもしているのですが、今回は全先生に集まってもらって色々な意見を聴くことができました。授業後半を使って30分程度だったので、十分に話せたとはいえませんがそれなりの成果があったように思います。
その中で面白かったのは4人の先生がそれぞれの勉強方法を持っているということでした。あるレベルで勉強をしてきた人は自分自身の勉強方を確立しているものです。それを伝えようとしたのですが、うまくいったかどうかよく分かりません。なにしろ、時間が足りませんでした。
次の機会を考えたいと思います。

2010年5月5日水曜日

なぜ勉強するのか

塾で生徒に勉強を教えていると、時々、「なぜ勉強しなければならないのか?」という質問をされることがあります。
「微分積分ができるようになっても、仕事で使わないでしょ?」と。

だいたいこういった質問をする生徒は、勉強をしない口実を欲している場合が多いので、「そんなことを悩まずに勉強しなさい」と言うこともアリですね。
僕はこういう質問をされた時には、「確かに微分積分はあまり役に立たないかもしれないけど、最初は解けなかった問題が解けるようになった経験や、自分で目標を設定してきつい勉強に耐えた経験は役に立つと思うよ。」と応えています。

微分積分が出来るようになっても、実社会ではほとんど役に立たないと思います。
(もちろん、一部の職種では役に立ちますが、役に立たない方が多いでしょう。)

ですが、微分積分を勉強することは意味があると思うのです。
(微分積分に限らず、源氏物語でも何でもいいです。)

自分の頭で考えることは社会に出て最も大切なことの一つです。

「勉強が出来なかった」という経験は社会に出てからマイナスになる場合があるので、「頑張ったらできるようになった」という経験をさせてあげたい。
微分積分という、どんな役に立つのかわけ分からない学問を使って、自分の頭で考える生徒、やればできると自信の持てる生徒を育てたいのです。

ちょっと無理かなと感じるくらい高い目標を設定して、そのために努力するという経験は、その人を成長させると思うのです。

というわけで、このホームページのトップに、
「摩擦なく宝石の原石を磨くことが不可能なように、試練なく人間が完成することはない」
という中国のことわざを記載したのでした。

おしまい。

2010年5月3日月曜日

調べ学習について

以前も調べ学習について書いたことがありますが、もう一度書きます。

最近『~について調べなさい』という課題が小学、中学で多く出されています。その課題をやる生徒の殆どはパソコンで調べているようです。
問題はウェブ上にある情報の信頼性です。それをどのように確認するか。なかなか難しい問題です。

ここ2度『子午線』について書きました。そこで、子午線と経線の命名(あるいは翻訳)についての歴史的経緯を調べようとネットで検索してみました。本当に欲しい情報が書いてあるものを見つけることはできませんでした。最もそれらしいものは検索した最初のページにあった『悠々館:子午線って?』でした。大きな二重ループの中に入り込んでしまったような感覚でした。自分の調べていることを自分のブログで知る。途中で第三者が介在するともうその出典が分からなくなります。

発信する側も受信する側も今までとは異なった情報処理の方法を考えなければならないようです。

2010年4月29日木曜日

子午線つづき

子午線について考えていたらあることを思い出しました。

小学校のときのことです。その小学校は石川県の金沢市にありました。
川沿いの高台に立つ古びた木造2階建ての学校でした。正面玄関を入ると直ぐのところに幾つかの胸像が置いてありました。そのうちの一つは『木村栄(きむら・ひさし)』と書いてありました。
彼がどんな人なのかそのときは全く関心がありませんでした。

それから随分たって、大学のとき、その名を再び目にします。彼は地軸のずれを計算した天文物理学者でした。
地球儀は北極と南極を中心に回転するように作られています。しかし実際の地球は回転の弱まったコマが少しぶれながら回転しているように、南北の軸に対してずれながら回転しています。その計算式が
Δφ = X cos λ + Y cos λ + Z
です。
木村はこのZ項を考えて、世界的な評価を得、第一回文化勲章を受章したのです。
そうか。あのときの胸像はそういう人だったのか。ある種の感慨がありました。
それ以来、理科や社会で地軸が問題になると必ず木村栄を思い出します。

その小学校の直ぐ傍に

 ふるさとは 遠きにありて 思うもの
 そして 悲しく うたうもの
 ・・・・・

といった詩で有名な室生犀星(むろう・さいせい)がその名をとった犀川が流れていました。
ひょっとして、残りの胸像は室生犀星? 

あの古ぼけた母校が少し誇らしくなる瞬間でした。

2010年4月28日水曜日

子午線って?

中1の生徒と地理をやっています。毎年この時期、気になっていることがあります。それは本初子午線(ロンドンを通っている経線)のことです。
経線という表現があるのに、なぜこの子午線という呼び方をするのかということです。
子午線の子は十二支の”ね”で北を表し、午はやはり十二支の”うま”で南を表します。北と南を結ぶ線なので子午線です。まさに、経線そのものなのですが。
最初の(経度0°)の子午線なので本初子午線というわけです。

ここから先は全くの想像です。おそらく、明治初め頃?の地理学者がこの翻訳をしたのでしょう。そのとても古風な呼び名が文部省の度重なる教科書改訂にもかかわらず、現在まで残ってきたのでしょう。すごい!と思いませんか?『ロンドンを通っている経線を本初子午線という』 これからもずっとそうだと良いなと思います。

教科書が簡単になる中、ことばも様々に変わってきました。数列の和を表す『級数』という言葉は数Ⅲにのみ残り、数Ⅱまでは『数列の和』といいます。中学以来使い続けてきた『変化の割合』は数Ⅱから『平均変化率』となります。言葉を簡単にすれば分かるようになるというものではないはずですが・・・

ちなみに 午は『牛(うし)』ではありません。うまです。十二支のうしは『丑』です。だれですか、角のない牛だって言ったのは。

2010年4月26日月曜日

5月6日 悠々会行ないます

連休明けの6日(木)授業終了後、悠々会おこないます。

2010年4月21日水曜日

九九が言えますか?

小6の生徒に九九を言わせてみました。そして、その時間をタイマーで計りました。
思ったより遅い結果でした。特に7の段以降は時々間違える子もいました。
勿論、全員九九はできるのですが、最も早く確実だった時期(おそらく小3~小4)より遅く、しかも不確実になっているようです。

色々原因を考えことはできますが、一番多いのは8×7をやるとき、7×8とする習慣が着いている(はちしち56ではなくしちは56とやる)のが一つ。もう一つは九九をいう機会がないということでしょう。

中学生、高校生で十分な数学力があるのに、確かな計算力がない生徒が目立ちます。分数の足し引きを間違える、符号を間違える(間違えた本人が符号の間違いを些細な間違いだと思っている節もある)。 更に良くみていると、九九を間違えている。繰り上がり、繰り下がりを間違えている。そんな例が目立ちます。

例えば、定積分の計算はその殆どが分数になります。定積分ができても最後の分数計算でミスしてしまう生徒が沢山います。分数計算を良くみてみると、その中身は九九と足し算、引き算です。そこでうっかりやってしまう。

中学生でも高校生でも時々九九のメンテナンスをやってみてはどうでしょう。週に1回5分で十分です。

2010年4月19日月曜日

左手に定規 右手に鉛筆

少し前に数学は頭で解くのではなく、鉛筆と目で解くのだという事を書きました。
正確には手と目と頭を使って解くというべきかも知れません。

高校に入学したときの数学の先生はぼくにとってとても重要な先生です。
最初の授業で等号(=)、分数の線、そして+、-を定規を使って書くように言われました。
「そんな、面倒な」と思ったのですが、指示に逆らうわけにも行かず、左手に定規、右手に鉛筆を持ち数学を解くようにしました。
右手で数字を書き、左手で定規を素早く動かす。それを続けているうちに左手が自由に、無意識に動くようになってきました。定規を使っても使わない時と速さが変わらないようになってきました。そして、ノートは以前より数倍綺麗になっていました。

今でも、ちゃんとしたノートで数学を解くときは左手に定規を持って取り掛かります。ひょっとするとその事で右脳が刺激され、良い結果がでるのではないかと思っています。

それを塾生に強要するつもりはありませんが、誰かやってみませんか? みやすいノートができるだけでも成果だと思うのですが。

2010年4月17日土曜日

There is の there はなぜ訳さないの?

英語の話題が続きますが、

  There is an apple on the desk. (机の上にりんごがある)

の there をなぜ訳さないのか、気になったことはありませんか? 色々調べたのですが、納得できる説明を見つけることはできませんでした。

そこで、勝手に色々と考えました。正しいかどうか分かりませんが・・・
①There is の there はやはり場所を表しているはず。真っ暗な意識の中でりんごが浮かび上がっているような場所。暗い演奏会場でスポットライトの当たっているような場所。それが there なのではないかと。
②同じような表現をドイツ語でするとき
  Es gibt ~  (~がある)
と言います。Es は英語のIt、 gibt は gives に対応します。『りんごがある』と言うのは『りんごが与えられている』と言うことになります。無意識というカオスの中から意識に浮かび上がってきたりんご。何が、または誰がそのりんごを意識というステージに持ち込んできたのか?ちょっと面白い所です。そして、そのりんごのある場所こそ英語の there に他ならないのではないかと。
③りんごを思い浮かべて見ましょう。そのりんごは木になっていますか?皿の上にのっていますか?それとも、暗闇の中にスポットライトを当てられて、りんごだけがありますか?

何か知っている人、教えてください。

2010年4月15日木曜日

seeとmeetの違い

今日中学2年生に英語を教えている際に、↓のような問題がありました。

次の日本語を英語に直したとき、括弧を埋めなさい。

日本語:昨日友達に会いましたか?
 ↓
 英語:() you () your friends yesterday?

さて、この問題の解答、何だと思いますか?



ちなみに、僕はテキストの解答を見る前に、「うーん」と考えて、Did you see your friends yesterday?だと思うと生徒に伝えました。
でも頭の中には、「seeではなく、meetかも?」という考えもよぎったのです。

そのテキストの解答はmeetで、Did you meet your friends yesterday?でした。
そのテキストに対応する教科書のLessonでmeetを使った文章が出ていたからだと思います。

しかし僕は直感的に、この問題はどちらが正解か判断できないと思いました。

meetもseeも日本語にすると、"会う"となりますが、僕の感覚的には、meetは初めて会う時などの"出会う"というニュアンスがあり、"see"は慣れ親しんだ友達に"会う"というニュアンスだと思っていたのです。

で、授業が終わり、家に帰ってきて、やはり気になったので、最近ニュージーランド出身の方と結婚した友達に電話してみました。
seeとmeetってどう使い分けるの?と。

で、いろいろと例文を出しながら、この場合はmeetだなぁとか、この場合はseeだなぁというのを、ネイティブの感覚で埋めてもらったのです。

■例文
We met at Shibuya station at 13:00. 僕らは13時に渋谷で会った
I'm going to see my friends. 友達に会いに向かっている
Nice to meet you. 会えて嬉しい。(初めての場合)
Nice to see you. 会えて嬉しい。(二回目以降の場合)
I went to see a doctor. 医者に診察してもらいに行ってきた。
I saw him in Shibuya yesterday. 昨日渋谷で(ばったり)彼に会った。

で、どうやって使い分けているのかを考えてもらうと、meetの場合は"会う二人"にフォーカスが当たっていると、seeの場合は"会う片方"にフォーカスが当たっているという話で落ち着きました。

つまり、"13時に渋谷で待ち合わせして会う"場合、"二人が渋谷に行く、そして会う"ということになり、会うために二人が行動しています。
仕事でお客さんに初めて会う場合も、オフィスの一室などに"お互いが集まる"という意識が強いわけです。
二回目はどちらかがどちらかのオフィスに伺うというニュアンスが強くなるのかもしれません。

ところが、病院に診察を受けに行く場合はお医者さんは病院にいて、"患者さんが"会いに行くわけです。
友達と昨日ばったり会った時も、その文章のフォーカスは"片方"に当たっています。

ここまで話して、主語へのフォーカスの違いなんだなと気づきました。
これは、そのネイティブも気づいていなかったことで考えてみるとそういうことかなという感じでした。

英語を教えていると本当にしょっちゅう、「その問題だけでは答えようがない」問題に出くわします。
その文章の背景が分からないとどの単語が適切か分からないのです。
aを使うかtheを使うかは特にそうですね。

答えようがない問題を教えても本質的には意味ないしなぁと思い、細かいですけど、こういったニュアンスの違いも教えていこうと思います。

ワークに書き込むか、ノートにやるか。それが問題だ。

数学のワークをどう扱うかで意見が分かれました。

NA先生はワークに書き込む派です。一番大きな理由は一冊やりこんだワークがあるという充実感とそれに伴って自信が持てるからです。確かに、初めから終わりまで解き尽したぼろぼろのワークを持つことは大きな自信と充実感を感じます。

一方、八木先生はノート派です。できない問題を完璧に処理するにはノートが必要で、ワークに書き込むと2度3度解くことができないからです。八木先生の学生時代のノートが塾にあります。『大学への数学/数Ⅲ・C』を解いたノートで、とても美しく分かりやすいノートです。そして、彼が『大数』を何度も完璧になるまで解いた様子が分かります。

さて、どちらが良いと思いますか?

手で考える

ちょっと難しい数学の問題を解かせると、できない人は殆ど手が動いていません。本人は何かを考えているようですが、傍から見ていると何もしていないように思えます。じーっとして固まっている。これを考えていると言って良いものでしょうか?

数学が得意な人の手はよく動いています。図を描いてみる。簡単な場合を想定して問題を書いてみる。問題の文章に下線を入れる。そうした手の動きと共に考えているのです。
そして、その手の動きに目の動きが連動しています。発生学的に目は脳そのものとも言えるので、目を動かすことは脳を動かすことなのでしょう。

したがって、数学を解くときには問題を読むより先に鉛筆を持つべきです。そして、手を動かすこと(何かを書くこと)を意識します。

数学は頭で解くのではなく、紙と鉛筆で解くのです。

2010年4月12日月曜日

悠々館書庫(仮)について

jyuku..choが読書についての記事を書いてくれたので、僕も便乗。

先々週に塾長と、塾生に読書を勧めていこうという話をしました。
で、各講師でお勧めの本を数冊持ってこようと。

思えば学生の頃、ほとんど読書をしませんでした。
なぜ僕が読書をしなかったかというと、理由はいくつかあると思うのですが、やはり小学生の頃の読書感想文という教育が良くなかったと思う。
感想なのに字数を指定されるのも意味がわからない(A4で2枚と言われると、1枚半以上2枚以下は書いた方が良いという圧力があった。)し、課題図書もつまらない本ばかり。

面白い本を読むこと、自由に感想を言い合えること、相手の感想もきちんと聴くこと。
うまくやれば読書はきっと面白い経験として、これからの成長に活かしていけるはずです。

そのためには、まずは講師が、生徒が本当に面白いと思える本を勧める必要があるんじゃないかなぁ。
そして、感想文を書かせるのではなくて、感想を話し合う場を作る。

「僕はこう思ったんだけど、君はどう?」
「つまらなかったっていうのは、どういうところがつまらないと感じたの?」
「そういう捉え方もできるし、こういう捉え方もできないかな?」

という感じでしょうか。

読む本は漫画だっていいと思う。最近「漫画で読破シリーズ」が流行っているし。
なんで読書感想文の課題図書って「つまらない小説」ばかりだったんだろう。
(あくまで書選に問題があるのでは?という話で、内容を批判するつもりはないです。)

「活字を読ませる手段」として、読書感想文を使うのは、読まされる側としてはあまり良くない。
結果僕は社会人になるまで、読書から遠ざかってしまったわけで。
スラムダンクの感想をみんなで話しあってみるのも面白いし、相対性理論という小難しい話を漫画で読むと面白いですよ~。

で、僕はさっそく10冊弱持って行きました。
その中の一冊が「日本人の英語」ですね。

他にも相対性理論を解説している漫画や、商売(ブランディング、マーケティングなど)に関する本なども本棚に入っているので、読みたい人は読んでください。

ちなみに、以前書いた記事はこちらです。
読書のすすめ
八木先生が色々な本を持ってきました。塾生や先生に読んで欲しい本です。
塾の書庫の一部にその本のコーナーを作って貸し出しできるようにする予定です。

何冊かの本のなかにマーク・ピーターセン著『日本人の英語』がありました。
『これ面白いよね』と八木先生に言うと。
『本当に面白いですよ』とのこと。

大分前にベストセラーになったものですが、素晴らしい本です。
ぼくの長く習ってきた英語ががたがたと音を立てて崩れていく感じがしました。

そのうちの一つ
『冠詞 a  や the は名詞に付くのではない。冠詞に名詞が付くのである』
というのは本当に画期的でした。
英語に関心のある人は是非、絶対に呼んでください。

ぼくもお気に入りの本を持ち込みたいと思います。

2010年4月9日金曜日

夏目漱石知ってますか?箸持てますか?納豆食べられますか?

まだ日本語を話す外国人が珍しかった頃、おそらく20年位前のことです。日本学の権威ドナルド・キーン、コロンビア大教授がこんなようなことを新聞に書いていました。

私は長く日本に住み、日本文学を学んでいます。たいていの日本人が読むのが困難な古典から現代作家の作品まで沢山の日本語を読んできました。にもかかわらず、初めて会った人に聞かれるのは
『日本語お上手ですね』『夏目漱石知ってますか?』『森鴎外知ってますか?』『三島由紀夫知ってますか?』『箸よりフォークが良いですか?』『刺身は食べられないんでしょ』『納豆食べられますか?』
という類のことだそうです。

最近は日本語を自由に操り、すしを箸でつまみ、納豆をパンにはさみ、村上春樹を愛読し、週末は秋葉原に出かけていく。そんな外国人すら登場するようになりました。

さて、それに反比例するかのように、夏目漱石や森鴎外を知らない若者が増えてきました。随分以前高校生に『今度、夏目漱石がお札になるねえ』といったところ、10人中5~6人がえっ?それ誰?という顔をしているのです。びっくりしました。そこで『森鴎外知ってる?』とおそるおそる聞くと、2~3人が知っているだけでした。

それから数年後、塾の授業が延びに延び、深夜12時過ぎに生徒と一緒に夜食のカップラーメンを食べていたときです。生徒のうち数人がちゃんと箸が持てないことに気づきました。
『箸も持てないやつに、数Ⅲを教えなくちゃいけないのか?』とラーメンの汁を飲みながら、半ば冗談で生徒と話したものです。

それから更に年月が経って、
『夏目漱石知ってますか?』『箸は持てますか?』『納豆食べれる?』さらに『日本語話せますか?』と生徒に聞かなければならなくなってきました。

2010年4月7日水曜日

野地先生って、、

将棋の羽生善治に似てない?

いや、それだけなんですけどね。。

2010年4月1日木曜日

突然、御殿場線に乗ろうと思いました。
沼津まで東海道線で行って、沼津から御殿場そして国府津という経路です。
風はまだ冷たくも良く晴れた日だったので、小学生の娘を連れて行きました。

御殿場線に乗るのは数十年ぶりです。当時、沼津から御殿場へ向かうとき列車はスイッチバック(急勾配の坂道を登るので、列車がジグザクに進んでいく。行ったり戻ったりしながら少しずつ登っていく)方式でした。今もそうかと思ったら電車は何事も無く進み続けるので、なんとなく残念な気持ちでした。ただ、列車のドアは自動的に開くのではなく、ボタンを押して開ける昔のスタイルのままでした。

出発が遅かったので、御殿場に着く頃に夕日が富士山の山際に迫ってきました。
『太陽が沈んでしまうよ』と娘に言うと。
『日本の太陽が沈むとアメリカの太陽も沈むの?』と質問してきました。
『えっ?』と聞き返すと。
『一つの国に一つずつ太陽があるんじゃないの?』と言いかけて、自分の間違えに気づいた風でした。
驚いて、『地球が太陽の周りを回っていて・・・日本が太陽の反対側に・・・』と説明し始めたのですが、良く分かっていないようでした。

最近、新聞で小学生の多くが地動説を知らず、天動説を信じているという記事を読みました。ゆとり教育云々という識者のコメントもありました。

うちの娘も天動説支持者の一人だったのです。

ただ、事はそんなに簡単ではないように思えます。子供に地動説を説明するのはかなり難しい。
地球が丸く、自転しながら、太陽の周りを公転している。それを鵜呑みにさせておぼえさせても余り意味がない気がするのです。太陽は宇宙の中で動いているのか、銀河は動いているのか、宇宙が膨張しているのなら、太陽も移動しているのだろう。相対的な関係の中で、地球が太陽の周りを回っていると言って良いのか。そんな、馬鹿げたことを沢山考えました。

中学受験の理科では、太陽、地球、月、星座の動きをかなり詳しく扱います。公立トップ校の高校生も知らないような事柄でいっぱいです。そこでは、太陽は紙の中心に描かれ、全く動きません。それをたいして疑うことなく信じていくことになります。

日が沈み、駅舎の片隅で咲き始めた桜が電灯に浮かび上がる頃、国府津に着きました。

2010年3月28日日曜日

4年に一度の楽しみ

バンクーバーで行われていた冬期パラリンピックが終了しました。

前回のトリノ大会から、チェアスキーという競技を見ることが楽しみになっています。スキーの上に固定された椅子のようなものに乗り、両手に小さなスキーのようなものを持って滑るのです。

もっともスピードの出る種目『滑降』は時速100km前後で競われているようです。
立って滑る普通のスキーよりも視線の位置が低いので、体感スピードは相当なものだろうと想像されます。ましてや下半身は椅子に固定された状態なのですから、恐怖感もかなりあるはずです。
それは『障害者』や『健常者』という枠をはるかに超えた素晴らしいパフォーマンスです。

日本は得意種目で幾つかのメダルを手にしました。
彼らの勇気と努力に敬意を払いたいと思います。

4年後がもう待ち遠しい。

2010年3月22日月曜日

春 その2

野地先生の『春』を読んで様々な感慨が蘇ってきました。

かつて日本の春の風物詩の一つは『集団就職』でした。東北や九州の中学校を出たばかりの子供たちが集団で東京、大阪、名古屋の工場などに就職したのです。

TVで『今年も集団就職の第一陣が上野駅に到着しました』というニュースが必ず取り上げられていました。中学の制服を着たホウズ頭の男の子、おかっぱ頭の女の子が両手にボストンバッグを持ち、上野駅に下りる様子が映像で流れていました。

そうして、東京の町工場や、大阪の商店、名古屋の繊維会社等に就職した子供たちが今日の日本の繁栄の一翼を担ったのでした。

それから随分経って、同年代の子供を持つ親となって初めて分かったことがあります。当時、東京に行くことは今とは比べ物にならないほど大変なことだったようです。まだ15歳の子供を、見ず知らずの遠い東京の工場に働きに出す。その親の心中を思うに、その悲しみがどれ程のものであっただろうかということです。

高校の漢文の授業をそんなに熱心に学んでいたわけではありませんが、幾つか覚えている文があります。

 燕々 汝 悲しむこと無かれ 
 高飛して 父母に 背きし日
 当時 父母の思い 
 汝 今 まさに 知るべし

というものです。昔のことで間違えている部分もあるように思います。ご容赦ください。
突然蘇ったこの漢文の意味が少し分かる年齢になりました。

今の中3はまだまだ子供です。一人で生きていけるとはとても思えません。それでも、とんでもない可能性を持った子供であることも事実です。

そうした別れの後に、また素晴らしい出会いがあったのだろうと思いたい気持ちでいっぱいです。

きょう高校野球春の大会開幕です。

2010年3月21日日曜日

近頃急に春らしくなってきました。早いもので、近所ではもう桜の花が咲き始めています。
そんな春は別れと出会いの季節とよく言われます。

受験が終わった中学生や高校生は新しい世界へと一歩踏み出してゆきます。
また、受験生以外でも、就職や、新たな生活がスタートする人たちも大勢いると思います。

僕もその一人のようです。

今後の自分の進むべき道を選ぶのに迷ったり不安になりますが、
「迷う」時点で、どの道を選んでも大した差はないのかもしれません。
どちらの道を選んでも多少の後悔はする気がします。

ただ、あとになって「あの選択をして良かった」と思えるようになるためには、
選択自体が大切ではなく、選択した先でいかに努力して成果を出したかによるのではないでしょうか?

人生の最期に、「自分の人生は良かった」と思えるような、完全燃焼の人生にしたいと思います。





2010年3月20日土曜日

厳しさと曖昧さ

『すみません。近くの地下鉄の駅を教えてください』と尋ねます。
『地下鉄? えーっと。直ぐそこの信号を右に行って。えーっと。2つ目、まてよ、3つ目かな。あっ2つ目だ。2つ目の交差点を左折して、しばらく行くと左手にコンビニがあって。その角を左に行って直ぐ右側ですよ』と丁寧に教えてもらいます。
『なるほど、分かりました。ありがとうございます』とお礼を言って、直ぐそこの信号を右に曲がります。”確か2つ目って言ってたなあ。うっ? 3つ目か?いや、2つ目でいいのか。で、そこをどっちだっけ?”もう怪しくなっています。通りかかる人を見つけて、
『すみません。近くの地下鉄の駅を教えてください』と再度尋ねることになります。
『分かること』と『できること』はこんな風に違っています。駅までの道順をメモするか、頭の中で再現できるまで繰り返すべきだったのです。

勉強もそうで、分かった気になったとして、それができるようになるまでにある種の距離があります。それをどうするかそれが問題です。必ず目的地につけるように厳しく学んでおかなければなりません。最後の最後の詰めのところまでちゃんとやることそれが厳しい勉強です。

一方、勉強にはある意味で曖昧さが必要です。丁寧に一生懸命勉強しているのに結果が伴わない人にそれがいえる場合があります。ノートもしっかり取れている。教科書もびっしりマーカーの線が入っている。本人も生真面目に時間をかけて勉強しているのですが、よくみていると、事の軽重というか濃淡というか、重要度の差が認識されていないようです。こうした人は、ある程度の成績を上げますが、勉強の割りには成績が伴いません。

逆に重要な部分を把握する事の得意な人がいます。問題の核心を掴む能力、または嗅覚に優れている人です。大して勉強していないようなのにテストでよい点を取るのはこうしたタイプです。重要なものを見分け、余り重要でないものを捨てる。そうした判断に優れているのです。瑣末なものを学ぶことに拘りすぎない。そんな曖昧さも必要な気がします。

厳しさと曖昧さ(この言葉は妥当ではないかも?)。
私の教えた生徒で難関大学に受かった人はその両方持った人が多いように思います。

2010年3月13日土曜日

悠々会 3月11日

MARCH 11 :YouYouKai
悠々会盛大に行われました。今回は高3卒業生中心です。
この写真を縦にする方法が分かりません。横になって見てください。
また、やりましょう。

2010年3月11日木曜日

単位について

子供が牛乳などを飲む普通のカップが何mlか知っていますか?通常200mlで作られています。これは料理で言う1カップです。それは1合(180ml)よりやや大きいので、米を炊くときに便利です。

私が高校の時にはオングストロームという単位(10の-8乗)が物理で出ていました。今は無くなっています。同様に圧力の単位のミリバールが無くなり、パスカルに変わりました。そのせいで、化学で扱う状態方程式の気体定数Rが0,082ではなくなり不便をしています。
こうした流れはN(ニュートン)を単位の基準とし、できるだけそれで統一しようという考えが根底にあります。そう考えると熱量で使われるカロリー等もやがて滅びる日が来るのでしょう?

単位は数学あるいは理科そのものでもあるのですが、一方で生活そのものでもあります。マイル、インチ、ポンド、ガロン、一寸、一尺。こうしたものはいっこうに滅びる様子はありません。日本では尺貫法を廃す方向でやってきたわけですが、やはりお酒は一升瓶に入っています。

日本人が少しといって、親指と人差し指を広げたとしましょう。(注)
アメリカ人が ア リトル ビット といって 親指と人差し指を広げたとしましょう。
ドイツ人が アイン ビシュヘン といって 親指と人差し指を広げたとしましょう。
その少しの感覚が少しずつ異なっているのです。

単位はこうした肉体感覚そのもののところがあります。地球の緯度0~90度を1万等分したメートルとはその考えの根本が違っています。

アメリカのカウボーイが被っている帽子をテンガロンハットといいます。1ガロン=約3.8リットルですから、38リットル帽子というわけです。なんだか間が抜けた感じになりますね。(注)

そんな訳で、未だにヘクトパスカルに慣れていない塾長でした。

(注)アメリカが初めて月に着陸したとき、宇宙船と月面着陸船との間で次のような交信があったそうです。『 Pull it back a skoshi 』  a skoshi ってなんだか分かりますか?『少し』なのです。『少し引っ張って』という意味です。戦後日本に駐留していたアメリカ軍人たちが日本人に『英語話せますか?』と聞くと決まって『少し』と答えたのが彼らの中で流行って、アメリカに帰ってから使うようになったとか。
(注)実際に38リットルも入るはずは無く、別の由来があるようです。

2010年3月8日月曜日

第3回悠々会のお知らせ!

さて、受験シーズンもそろそろ終わりが近づいています。
ということで、悠々会やります!

日程は3月11日(木)です。

今回は受験を終えた生徒たちを労うべく、またまた美味しいものを作ろうと画策しております。
みなさん、予定空けておいてくださいね♪

2010年3月7日日曜日

悠々館ホームページリニューアルしました!

先程ホームページをリニューアルしました。
RSSリーダーで読んでいる人は、是非一度ご覧ください。

前から悠々館のホームページをもっと格好良くしたいなぁと考えていました。
どうせ変えるなら、一目で"塾のホームページ"だと分かるようなデザインにしたいなぁと思い、一つ一つの記事の背景を黒板っぽくデザインしたらどうかなと思ったことからデザインし始めました。

ホームページを一から創るのは、実は今回が初めてだったのですが、(ブログ程度なら創ってますけど。)かなり楽しかったです。
昔から美術が苦手で、デザイン関係の作業は敬遠してきたのですが、勉強になりました。

しかし、このリニューアルのために、画像作成ソフトを一から勉強したり、HTML/CSSの分厚い参考書を読んだりと、久しぶりに勉強したなぁ。
ここ2ヶ月ほどは、手が空いたときは常にホームページ制作のことばかり考えていましたね。


さて、見たら分かることですが、基本的には"塾にあるもの"で構成しています。
ルーズリーフとかノートとか。

まだ課題は残っているのですが、おいおい直していきます。
(コメント枠が見づらいとか、印刷すると見づらい、ファビコンどうすんだ、とかですね。)

何か要望があればどんどん提案してください。

2010年3月5日金曜日

旅立ち

高校受験生の息子が『合格発表が終わったら一人旅したい』と言いました。ぼくは長く旅をしていたのでその影響もあるのでしょう。『良いよ』と軽く答えておきました。

さて、発表の翌日『どうする?』と聞くと、『京都へ行きたい』とのこと。約束なので行かせることにしました。

昨日『青春18きっぷ』を買ってきて、息子に渡しました。普通列車ならどれだけ乗っても良いという有名な切符です。京都まで普通列車を乗り継いで約9時間の旅です。

若者の一人旅は新幹線ではなく鈍行を乗り継いで行くものだと思っています。はるか昔、横浜から船に乗ってナホトカに向かい、シベリア鉄道を延々とヨーロッパに向かった頃が蘇ってきました。不安と興奮と入り混じった日々でした。その中で出会ったヨーロッパの若者の旅のスタイルはとてつもなく質素なものでした。昼になると、ザックから包みを取り出します。その中にバターの塊とサラミソーセージとパンと果物が入っています。ナイフでサラミを切って口に運び、そのナイフでパンにバーターをぬり、オレンジの皮をむく。『かっこいいなあー』と思いました。食費を切り詰め、宿代を切り詰め、それでも旅を続ける。それはドイツを中心にした若者のある種の伝統です。

そんな旅を息子にもして欲しいと思います。彼の義務教育もあと僅かです。

2010年2月15日月曜日

lookとwatch または listenとhearの区別は必要か?

区別が必要か?シリーズ第3弾です。

look と watch 或いは see の厳密な区別はできるのでしょうか?
次の( )の中にlook かwatch か seeを入れなさい。という頻繁にお目にかかる英語の問題ではその区別をしなければなりません。そして、それなりの学力があれば区別できます。

今ここで問題にしているのは、その差(区別)を日本語として表現できるか?または、日本語に満たされた頭脳でその区別を理解し得るか?ということです。

《みる》という言葉を変換すると《見る・診る・観る・看る・視る》と多様な言葉が登場してきます。そして、それらは異なった漢字を使っていても音は皆《みる》で同じなのです。おそらく《みる》という動詞は共通な行為(例えば、目を使う)を基本としながら様々な場合で用いられていたのでしょう。話し言葉では状況によってその内容が区別できるのですが、書かれたものでは区別できず、その差を漢字によって表現したものだと思われます。「芝居をみる」や「患者をみる」は目を使った同じような行為ですが、内実が相当に異なりますから、「芝居を観る」「患者を診る」と表記することになったのでしょう。

ところがwatch、look、seeになると音が全く異なりますから、言葉ができた最初からそれなりに別の言葉だったように思います。それを日本語にすると『じっと見る』とか『ぼんやりと見る』とか『注意深く見る』とか様々な副詞をつけて区別することになります。動詞で区別せず、副詞で区別する訳です。seeとlookが副詞ではなく、動詞で区別されるからにはそれなりに大きな違いがあると思われます。そして、その一つは《みる》対象に対する意識の向かい方が①意識から対象なのか、逆に②対象から意識なのか(能動的か受動的か)ということのようです。そして、《みる》にはその区別がありません。

さて、単語がなかなか覚えられないと嘆く大学受験生のA君です。まじめに単語帳を《みて》います。毎日一定の時間、単語帳を《みる》ことにしています。問題は彼の意識が能動的に対象(単語)に向かっているかどうかです。どうもそこのところが分かっていないようです。彼の行動にちょうど当てはまる動詞は《みる》というより《ながめる》に近いからです。

2010年2月6日土曜日

存在感?

先日外国人の方と話す機会がありました。
そこで質問されました。
「日本語で言う、存在感って何なんですか?」と。

どうにかして説明しようとしましたが、これがどう説明してよいのか分かりません。

良く話す人=存在感がある?
とてもハンサムな人=存在感がある?
テレビに出てるような有名人=存在感がある?

どの説明もしっくりきません…

でも、存在感のある人になりたいと自分は思うのでした。

新たなり・・・・・新しい

最近『へーえっ』と驚いたこと。

『新しい』という言葉はもともとの『新たなり』の発音が入れ替わって、それが一般に使われるようになったという話を聞きました。漢字を見ていると分からないのですが。
『あらたなり』・・・『あたらしい』
らたたらに入れ替わっているのです。発音上の理由があるようです。

英語でもイギリスでは・・・re がアメリカでは・・・erになるものがあります。共通した理由があるのでしょうか?

そういえば、関係無いといえば無いのですが、ロシア語のЯはアルファベットの積み木をロシアに運ぶ途中にひっくり返してしまい、Rが逆になったという逸話もあります。

まだ言葉をおぼえたての子供はよく、音の順番が入れ替わります。
例えば『エベレスト』を『エレベスト』とか。

今なお、bookをdook、dogをbogと書いてしまうことのある『きみ』。どうしてそうなってしまうのか教えてください。

『次の角をに曲がって』と言っているのにいつも『わっかた』と言って、ハンドルに回す『あなた』。どうしてそうなるのか教えてください。

フレミングの『手の法則』を手でやってしまう中学生、どうしてそうなるのか教えてください。

『あっちむいてほい』と言って、をさされると必ずを見てしまう正直な『ぼく』。どうしてそうなるのか誰か教えてください。

2010年2月4日木曜日

Also sprach Zarathustra ・・・ツァラトストラかく語りき

ドイツの哲学者ニーチェは主著『ツァラトストラかく語りき』の中で、『神は死んだ』と言い世界にその名を知られています。その後、ヨーロッパはダイナミックに現代へと突入していくことになります。

そのニーチェのアフォリズム(箴言)の中に、『ある人に対して、”どうしてそうなのだ?”と問いかけてはならない。彼はとっくにその段階ではなくなっているからだ』というような、一文があったはずです。残念ながらその正確な文章と出典は余りに昔に読んだので、忘れてしまっていますが。

数学を教えていると、『なぜそうなるの?』という質問が当然なされます。それは重要なので、できる限り答えるようにしているのですが、時として、答えることが不可能だと思えることがあります。

(問)『1から100までの整数の中に2または3の倍数がいくつあるか?』
(解)2の倍数が100÷2=50個あって・・・・・

と説明するとします。普通ここでは質問がないのですが、ごくまれに

100÷2は100を2つにすることなのに、何で2の倍数が50個になるの?という質問をする人がいます。あれこれ説明方法や視点を変えて説明するのですが、どうにも納得してもらえません。こちらも説明に窮し『うーん』と唸ってしまいます。そこで、『一旦このことはそうだということにしてもらって次に進みたいんだけれど・・・』と話を進めます。ところが、先ほどの疑問がクリアーされないと先に進めないようです。

こうしたタイプの人は時々います。本人にパワーがあればある一定の成績を出しますが、パワーがないと行き詰ってしまいます。彼らが学力を上げるには『なぜ?、なぜ?』という部分の処理を考えなければなりません。

全てのことに正当な理由があるわけではなく、あったとしても理解可能なものとは限りません。
そんな時、一旦、『判断を中止して、先ずは先に進む』。そんな、ことも必要です。運がよければそのうち理解できるかもしれませんし、ひょっとすると気にならなくなるかもしれません。

*ニーチェの後に続く哲学者で現象学者のフッサールは現象学的『判断中止』ということを言いました。内容は異なりますが、『一旦判断を中止し』というところだけ、似ていますね。