ドイツの哲学者ニーチェは主著『ツァラトストラかく語りき』の中で、『神は死んだ』と言い世界にその名を知られています。その後、ヨーロッパはダイナミックに現代へと突入していくことになります。
そのニーチェのアフォリズム(箴言)の中に、『ある人に対して、”どうしてそうなのだ?”と問いかけてはならない。彼はとっくにその段階ではなくなっているからだ』というような、一文があったはずです。残念ながらその正確な文章と出典は余りに昔に読んだので、忘れてしまっていますが。
数学を教えていると、『なぜそうなるの?』という質問が当然なされます。それは重要なので、できる限り答えるようにしているのですが、時として、答えることが不可能だと思えることがあります。
(問)『1から100までの整数の中に2または3の倍数がいくつあるか?』
(解)2の倍数が100÷2=50個あって・・・・・
と説明するとします。普通ここでは質問がないのですが、ごくまれに
100÷2は100を2つにすることなのに、何で2の倍数が50個になるの?という質問をする人がいます。あれこれ説明方法や視点を変えて説明するのですが、どうにも納得してもらえません。こちらも説明に窮し『うーん』と唸ってしまいます。そこで、『一旦このことはそうだということにしてもらって次に進みたいんだけれど・・・』と話を進めます。ところが、先ほどの疑問がクリアーされないと先に進めないようです。
こうしたタイプの人は時々います。本人にパワーがあればある一定の成績を出しますが、パワーがないと行き詰ってしまいます。彼らが学力を上げるには『なぜ?、なぜ?』という部分の処理を考えなければなりません。
全てのことに正当な理由があるわけではなく、あったとしても理解可能なものとは限りません。
そんな時、一旦、『判断を中止して、先ずは先に進む』。そんな、ことも必要です。運がよければそのうち理解できるかもしれませんし、ひょっとすると気にならなくなるかもしれません。
*ニーチェの後に続く哲学者で現象学者のフッサールは現象学的『判断中止』ということを言いました。内容は異なりますが、『一旦判断を中止し』というところだけ、似ていますね。
2010年2月4日木曜日
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