2010年2月15日月曜日

lookとwatch または listenとhearの区別は必要か?

区別が必要か?シリーズ第3弾です。

look と watch 或いは see の厳密な区別はできるのでしょうか?
次の( )の中にlook かwatch か seeを入れなさい。という頻繁にお目にかかる英語の問題ではその区別をしなければなりません。そして、それなりの学力があれば区別できます。

今ここで問題にしているのは、その差(区別)を日本語として表現できるか?または、日本語に満たされた頭脳でその区別を理解し得るか?ということです。

《みる》という言葉を変換すると《見る・診る・観る・看る・視る》と多様な言葉が登場してきます。そして、それらは異なった漢字を使っていても音は皆《みる》で同じなのです。おそらく《みる》という動詞は共通な行為(例えば、目を使う)を基本としながら様々な場合で用いられていたのでしょう。話し言葉では状況によってその内容が区別できるのですが、書かれたものでは区別できず、その差を漢字によって表現したものだと思われます。「芝居をみる」や「患者をみる」は目を使った同じような行為ですが、内実が相当に異なりますから、「芝居を観る」「患者を診る」と表記することになったのでしょう。

ところがwatch、look、seeになると音が全く異なりますから、言葉ができた最初からそれなりに別の言葉だったように思います。それを日本語にすると『じっと見る』とか『ぼんやりと見る』とか『注意深く見る』とか様々な副詞をつけて区別することになります。動詞で区別せず、副詞で区別する訳です。seeとlookが副詞ではなく、動詞で区別されるからにはそれなりに大きな違いがあると思われます。そして、その一つは《みる》対象に対する意識の向かい方が①意識から対象なのか、逆に②対象から意識なのか(能動的か受動的か)ということのようです。そして、《みる》にはその区別がありません。

さて、単語がなかなか覚えられないと嘆く大学受験生のA君です。まじめに単語帳を《みて》います。毎日一定の時間、単語帳を《みる》ことにしています。問題は彼の意識が能動的に対象(単語)に向かっているかどうかです。どうもそこのところが分かっていないようです。彼の行動にちょうど当てはまる動詞は《みる》というより《ながめる》に近いからです。

2010年2月6日土曜日

存在感?

先日外国人の方と話す機会がありました。
そこで質問されました。
「日本語で言う、存在感って何なんですか?」と。

どうにかして説明しようとしましたが、これがどう説明してよいのか分かりません。

良く話す人=存在感がある?
とてもハンサムな人=存在感がある?
テレビに出てるような有名人=存在感がある?

どの説明もしっくりきません…

でも、存在感のある人になりたいと自分は思うのでした。

新たなり・・・・・新しい

最近『へーえっ』と驚いたこと。

『新しい』という言葉はもともとの『新たなり』の発音が入れ替わって、それが一般に使われるようになったという話を聞きました。漢字を見ていると分からないのですが。
『あらたなり』・・・『あたらしい』
らたたらに入れ替わっているのです。発音上の理由があるようです。

英語でもイギリスでは・・・re がアメリカでは・・・erになるものがあります。共通した理由があるのでしょうか?

そういえば、関係無いといえば無いのですが、ロシア語のЯはアルファベットの積み木をロシアに運ぶ途中にひっくり返してしまい、Rが逆になったという逸話もあります。

まだ言葉をおぼえたての子供はよく、音の順番が入れ替わります。
例えば『エベレスト』を『エレベスト』とか。

今なお、bookをdook、dogをbogと書いてしまうことのある『きみ』。どうしてそうなってしまうのか教えてください。

『次の角をに曲がって』と言っているのにいつも『わっかた』と言って、ハンドルに回す『あなた』。どうしてそうなるのか教えてください。

フレミングの『手の法則』を手でやってしまう中学生、どうしてそうなるのか教えてください。

『あっちむいてほい』と言って、をさされると必ずを見てしまう正直な『ぼく』。どうしてそうなるのか誰か教えてください。

2010年2月4日木曜日

Also sprach Zarathustra ・・・ツァラトストラかく語りき

ドイツの哲学者ニーチェは主著『ツァラトストラかく語りき』の中で、『神は死んだ』と言い世界にその名を知られています。その後、ヨーロッパはダイナミックに現代へと突入していくことになります。

そのニーチェのアフォリズム(箴言)の中に、『ある人に対して、”どうしてそうなのだ?”と問いかけてはならない。彼はとっくにその段階ではなくなっているからだ』というような、一文があったはずです。残念ながらその正確な文章と出典は余りに昔に読んだので、忘れてしまっていますが。

数学を教えていると、『なぜそうなるの?』という質問が当然なされます。それは重要なので、できる限り答えるようにしているのですが、時として、答えることが不可能だと思えることがあります。

(問)『1から100までの整数の中に2または3の倍数がいくつあるか?』
(解)2の倍数が100÷2=50個あって・・・・・

と説明するとします。普通ここでは質問がないのですが、ごくまれに

100÷2は100を2つにすることなのに、何で2の倍数が50個になるの?という質問をする人がいます。あれこれ説明方法や視点を変えて説明するのですが、どうにも納得してもらえません。こちらも説明に窮し『うーん』と唸ってしまいます。そこで、『一旦このことはそうだということにしてもらって次に進みたいんだけれど・・・』と話を進めます。ところが、先ほどの疑問がクリアーされないと先に進めないようです。

こうしたタイプの人は時々います。本人にパワーがあればある一定の成績を出しますが、パワーがないと行き詰ってしまいます。彼らが学力を上げるには『なぜ?、なぜ?』という部分の処理を考えなければなりません。

全てのことに正当な理由があるわけではなく、あったとしても理解可能なものとは限りません。
そんな時、一旦、『判断を中止して、先ずは先に進む』。そんな、ことも必要です。運がよければそのうち理解できるかもしれませんし、ひょっとすると気にならなくなるかもしれません。

*ニーチェの後に続く哲学者で現象学者のフッサールは現象学的『判断中止』ということを言いました。内容は異なりますが、『一旦判断を中止し』というところだけ、似ていますね。