2010年4月29日木曜日

子午線つづき

子午線について考えていたらあることを思い出しました。

小学校のときのことです。その小学校は石川県の金沢市にありました。
川沿いの高台に立つ古びた木造2階建ての学校でした。正面玄関を入ると直ぐのところに幾つかの胸像が置いてありました。そのうちの一つは『木村栄(きむら・ひさし)』と書いてありました。
彼がどんな人なのかそのときは全く関心がありませんでした。

それから随分たって、大学のとき、その名を再び目にします。彼は地軸のずれを計算した天文物理学者でした。
地球儀は北極と南極を中心に回転するように作られています。しかし実際の地球は回転の弱まったコマが少しぶれながら回転しているように、南北の軸に対してずれながら回転しています。その計算式が
Δφ = X cos λ + Y cos λ + Z
です。
木村はこのZ項を考えて、世界的な評価を得、第一回文化勲章を受章したのです。
そうか。あのときの胸像はそういう人だったのか。ある種の感慨がありました。
それ以来、理科や社会で地軸が問題になると必ず木村栄を思い出します。

その小学校の直ぐ傍に

 ふるさとは 遠きにありて 思うもの
 そして 悲しく うたうもの
 ・・・・・

といった詩で有名な室生犀星(むろう・さいせい)がその名をとった犀川が流れていました。
ひょっとして、残りの胸像は室生犀星? 

あの古ぼけた母校が少し誇らしくなる瞬間でした。

2010年4月28日水曜日

子午線って?

中1の生徒と地理をやっています。毎年この時期、気になっていることがあります。それは本初子午線(ロンドンを通っている経線)のことです。
経線という表現があるのに、なぜこの子午線という呼び方をするのかということです。
子午線の子は十二支の”ね”で北を表し、午はやはり十二支の”うま”で南を表します。北と南を結ぶ線なので子午線です。まさに、経線そのものなのですが。
最初の(経度0°)の子午線なので本初子午線というわけです。

ここから先は全くの想像です。おそらく、明治初め頃?の地理学者がこの翻訳をしたのでしょう。そのとても古風な呼び名が文部省の度重なる教科書改訂にもかかわらず、現在まで残ってきたのでしょう。すごい!と思いませんか?『ロンドンを通っている経線を本初子午線という』 これからもずっとそうだと良いなと思います。

教科書が簡単になる中、ことばも様々に変わってきました。数列の和を表す『級数』という言葉は数Ⅲにのみ残り、数Ⅱまでは『数列の和』といいます。中学以来使い続けてきた『変化の割合』は数Ⅱから『平均変化率』となります。言葉を簡単にすれば分かるようになるというものではないはずですが・・・

ちなみに 午は『牛(うし)』ではありません。うまです。十二支のうしは『丑』です。だれですか、角のない牛だって言ったのは。

2010年4月26日月曜日

5月6日 悠々会行ないます

連休明けの6日(木)授業終了後、悠々会おこないます。

2010年4月21日水曜日

九九が言えますか?

小6の生徒に九九を言わせてみました。そして、その時間をタイマーで計りました。
思ったより遅い結果でした。特に7の段以降は時々間違える子もいました。
勿論、全員九九はできるのですが、最も早く確実だった時期(おそらく小3~小4)より遅く、しかも不確実になっているようです。

色々原因を考えことはできますが、一番多いのは8×7をやるとき、7×8とする習慣が着いている(はちしち56ではなくしちは56とやる)のが一つ。もう一つは九九をいう機会がないということでしょう。

中学生、高校生で十分な数学力があるのに、確かな計算力がない生徒が目立ちます。分数の足し引きを間違える、符号を間違える(間違えた本人が符号の間違いを些細な間違いだと思っている節もある)。 更に良くみていると、九九を間違えている。繰り上がり、繰り下がりを間違えている。そんな例が目立ちます。

例えば、定積分の計算はその殆どが分数になります。定積分ができても最後の分数計算でミスしてしまう生徒が沢山います。分数計算を良くみてみると、その中身は九九と足し算、引き算です。そこでうっかりやってしまう。

中学生でも高校生でも時々九九のメンテナンスをやってみてはどうでしょう。週に1回5分で十分です。

2010年4月19日月曜日

左手に定規 右手に鉛筆

少し前に数学は頭で解くのではなく、鉛筆と目で解くのだという事を書きました。
正確には手と目と頭を使って解くというべきかも知れません。

高校に入学したときの数学の先生はぼくにとってとても重要な先生です。
最初の授業で等号(=)、分数の線、そして+、-を定規を使って書くように言われました。
「そんな、面倒な」と思ったのですが、指示に逆らうわけにも行かず、左手に定規、右手に鉛筆を持ち数学を解くようにしました。
右手で数字を書き、左手で定規を素早く動かす。それを続けているうちに左手が自由に、無意識に動くようになってきました。定規を使っても使わない時と速さが変わらないようになってきました。そして、ノートは以前より数倍綺麗になっていました。

今でも、ちゃんとしたノートで数学を解くときは左手に定規を持って取り掛かります。ひょっとするとその事で右脳が刺激され、良い結果がでるのではないかと思っています。

それを塾生に強要するつもりはありませんが、誰かやってみませんか? みやすいノートができるだけでも成果だと思うのですが。

2010年4月17日土曜日

There is の there はなぜ訳さないの?

英語の話題が続きますが、

  There is an apple on the desk. (机の上にりんごがある)

の there をなぜ訳さないのか、気になったことはありませんか? 色々調べたのですが、納得できる説明を見つけることはできませんでした。

そこで、勝手に色々と考えました。正しいかどうか分かりませんが・・・
①There is の there はやはり場所を表しているはず。真っ暗な意識の中でりんごが浮かび上がっているような場所。暗い演奏会場でスポットライトの当たっているような場所。それが there なのではないかと。
②同じような表現をドイツ語でするとき
  Es gibt ~  (~がある)
と言います。Es は英語のIt、 gibt は gives に対応します。『りんごがある』と言うのは『りんごが与えられている』と言うことになります。無意識というカオスの中から意識に浮かび上がってきたりんご。何が、または誰がそのりんごを意識というステージに持ち込んできたのか?ちょっと面白い所です。そして、そのりんごのある場所こそ英語の there に他ならないのではないかと。
③りんごを思い浮かべて見ましょう。そのりんごは木になっていますか?皿の上にのっていますか?それとも、暗闇の中にスポットライトを当てられて、りんごだけがありますか?

何か知っている人、教えてください。

2010年4月15日木曜日

seeとmeetの違い

今日中学2年生に英語を教えている際に、↓のような問題がありました。

次の日本語を英語に直したとき、括弧を埋めなさい。

日本語:昨日友達に会いましたか?
 ↓
 英語:() you () your friends yesterday?

さて、この問題の解答、何だと思いますか?



ちなみに、僕はテキストの解答を見る前に、「うーん」と考えて、Did you see your friends yesterday?だと思うと生徒に伝えました。
でも頭の中には、「seeではなく、meetかも?」という考えもよぎったのです。

そのテキストの解答はmeetで、Did you meet your friends yesterday?でした。
そのテキストに対応する教科書のLessonでmeetを使った文章が出ていたからだと思います。

しかし僕は直感的に、この問題はどちらが正解か判断できないと思いました。

meetもseeも日本語にすると、"会う"となりますが、僕の感覚的には、meetは初めて会う時などの"出会う"というニュアンスがあり、"see"は慣れ親しんだ友達に"会う"というニュアンスだと思っていたのです。

で、授業が終わり、家に帰ってきて、やはり気になったので、最近ニュージーランド出身の方と結婚した友達に電話してみました。
seeとmeetってどう使い分けるの?と。

で、いろいろと例文を出しながら、この場合はmeetだなぁとか、この場合はseeだなぁというのを、ネイティブの感覚で埋めてもらったのです。

■例文
We met at Shibuya station at 13:00. 僕らは13時に渋谷で会った
I'm going to see my friends. 友達に会いに向かっている
Nice to meet you. 会えて嬉しい。(初めての場合)
Nice to see you. 会えて嬉しい。(二回目以降の場合)
I went to see a doctor. 医者に診察してもらいに行ってきた。
I saw him in Shibuya yesterday. 昨日渋谷で(ばったり)彼に会った。

で、どうやって使い分けているのかを考えてもらうと、meetの場合は"会う二人"にフォーカスが当たっていると、seeの場合は"会う片方"にフォーカスが当たっているという話で落ち着きました。

つまり、"13時に渋谷で待ち合わせして会う"場合、"二人が渋谷に行く、そして会う"ということになり、会うために二人が行動しています。
仕事でお客さんに初めて会う場合も、オフィスの一室などに"お互いが集まる"という意識が強いわけです。
二回目はどちらかがどちらかのオフィスに伺うというニュアンスが強くなるのかもしれません。

ところが、病院に診察を受けに行く場合はお医者さんは病院にいて、"患者さんが"会いに行くわけです。
友達と昨日ばったり会った時も、その文章のフォーカスは"片方"に当たっています。

ここまで話して、主語へのフォーカスの違いなんだなと気づきました。
これは、そのネイティブも気づいていなかったことで考えてみるとそういうことかなという感じでした。

英語を教えていると本当にしょっちゅう、「その問題だけでは答えようがない」問題に出くわします。
その文章の背景が分からないとどの単語が適切か分からないのです。
aを使うかtheを使うかは特にそうですね。

答えようがない問題を教えても本質的には意味ないしなぁと思い、細かいですけど、こういったニュアンスの違いも教えていこうと思います。

ワークに書き込むか、ノートにやるか。それが問題だ。

数学のワークをどう扱うかで意見が分かれました。

NA先生はワークに書き込む派です。一番大きな理由は一冊やりこんだワークがあるという充実感とそれに伴って自信が持てるからです。確かに、初めから終わりまで解き尽したぼろぼろのワークを持つことは大きな自信と充実感を感じます。

一方、八木先生はノート派です。できない問題を完璧に処理するにはノートが必要で、ワークに書き込むと2度3度解くことができないからです。八木先生の学生時代のノートが塾にあります。『大学への数学/数Ⅲ・C』を解いたノートで、とても美しく分かりやすいノートです。そして、彼が『大数』を何度も完璧になるまで解いた様子が分かります。

さて、どちらが良いと思いますか?

手で考える

ちょっと難しい数学の問題を解かせると、できない人は殆ど手が動いていません。本人は何かを考えているようですが、傍から見ていると何もしていないように思えます。じーっとして固まっている。これを考えていると言って良いものでしょうか?

数学が得意な人の手はよく動いています。図を描いてみる。簡単な場合を想定して問題を書いてみる。問題の文章に下線を入れる。そうした手の動きと共に考えているのです。
そして、その手の動きに目の動きが連動しています。発生学的に目は脳そのものとも言えるので、目を動かすことは脳を動かすことなのでしょう。

したがって、数学を解くときには問題を読むより先に鉛筆を持つべきです。そして、手を動かすこと(何かを書くこと)を意識します。

数学は頭で解くのではなく、紙と鉛筆で解くのです。

2010年4月12日月曜日

悠々館書庫(仮)について

jyuku..choが読書についての記事を書いてくれたので、僕も便乗。

先々週に塾長と、塾生に読書を勧めていこうという話をしました。
で、各講師でお勧めの本を数冊持ってこようと。

思えば学生の頃、ほとんど読書をしませんでした。
なぜ僕が読書をしなかったかというと、理由はいくつかあると思うのですが、やはり小学生の頃の読書感想文という教育が良くなかったと思う。
感想なのに字数を指定されるのも意味がわからない(A4で2枚と言われると、1枚半以上2枚以下は書いた方が良いという圧力があった。)し、課題図書もつまらない本ばかり。

面白い本を読むこと、自由に感想を言い合えること、相手の感想もきちんと聴くこと。
うまくやれば読書はきっと面白い経験として、これからの成長に活かしていけるはずです。

そのためには、まずは講師が、生徒が本当に面白いと思える本を勧める必要があるんじゃないかなぁ。
そして、感想文を書かせるのではなくて、感想を話し合う場を作る。

「僕はこう思ったんだけど、君はどう?」
「つまらなかったっていうのは、どういうところがつまらないと感じたの?」
「そういう捉え方もできるし、こういう捉え方もできないかな?」

という感じでしょうか。

読む本は漫画だっていいと思う。最近「漫画で読破シリーズ」が流行っているし。
なんで読書感想文の課題図書って「つまらない小説」ばかりだったんだろう。
(あくまで書選に問題があるのでは?という話で、内容を批判するつもりはないです。)

「活字を読ませる手段」として、読書感想文を使うのは、読まされる側としてはあまり良くない。
結果僕は社会人になるまで、読書から遠ざかってしまったわけで。
スラムダンクの感想をみんなで話しあってみるのも面白いし、相対性理論という小難しい話を漫画で読むと面白いですよ~。

で、僕はさっそく10冊弱持って行きました。
その中の一冊が「日本人の英語」ですね。

他にも相対性理論を解説している漫画や、商売(ブランディング、マーケティングなど)に関する本なども本棚に入っているので、読みたい人は読んでください。

ちなみに、以前書いた記事はこちらです。
読書のすすめ
八木先生が色々な本を持ってきました。塾生や先生に読んで欲しい本です。
塾の書庫の一部にその本のコーナーを作って貸し出しできるようにする予定です。

何冊かの本のなかにマーク・ピーターセン著『日本人の英語』がありました。
『これ面白いよね』と八木先生に言うと。
『本当に面白いですよ』とのこと。

大分前にベストセラーになったものですが、素晴らしい本です。
ぼくの長く習ってきた英語ががたがたと音を立てて崩れていく感じがしました。

そのうちの一つ
『冠詞 a  や the は名詞に付くのではない。冠詞に名詞が付くのである』
というのは本当に画期的でした。
英語に関心のある人は是非、絶対に呼んでください。

ぼくもお気に入りの本を持ち込みたいと思います。

2010年4月9日金曜日

夏目漱石知ってますか?箸持てますか?納豆食べられますか?

まだ日本語を話す外国人が珍しかった頃、おそらく20年位前のことです。日本学の権威ドナルド・キーン、コロンビア大教授がこんなようなことを新聞に書いていました。

私は長く日本に住み、日本文学を学んでいます。たいていの日本人が読むのが困難な古典から現代作家の作品まで沢山の日本語を読んできました。にもかかわらず、初めて会った人に聞かれるのは
『日本語お上手ですね』『夏目漱石知ってますか?』『森鴎外知ってますか?』『三島由紀夫知ってますか?』『箸よりフォークが良いですか?』『刺身は食べられないんでしょ』『納豆食べられますか?』
という類のことだそうです。

最近は日本語を自由に操り、すしを箸でつまみ、納豆をパンにはさみ、村上春樹を愛読し、週末は秋葉原に出かけていく。そんな外国人すら登場するようになりました。

さて、それに反比例するかのように、夏目漱石や森鴎外を知らない若者が増えてきました。随分以前高校生に『今度、夏目漱石がお札になるねえ』といったところ、10人中5~6人がえっ?それ誰?という顔をしているのです。びっくりしました。そこで『森鴎外知ってる?』とおそるおそる聞くと、2~3人が知っているだけでした。

それから数年後、塾の授業が延びに延び、深夜12時過ぎに生徒と一緒に夜食のカップラーメンを食べていたときです。生徒のうち数人がちゃんと箸が持てないことに気づきました。
『箸も持てないやつに、数Ⅲを教えなくちゃいけないのか?』とラーメンの汁を飲みながら、半ば冗談で生徒と話したものです。

それから更に年月が経って、
『夏目漱石知ってますか?』『箸は持てますか?』『納豆食べれる?』さらに『日本語話せますか?』と生徒に聞かなければならなくなってきました。

2010年4月7日水曜日

野地先生って、、

将棋の羽生善治に似てない?

いや、それだけなんですけどね。。

2010年4月1日木曜日

突然、御殿場線に乗ろうと思いました。
沼津まで東海道線で行って、沼津から御殿場そして国府津という経路です。
風はまだ冷たくも良く晴れた日だったので、小学生の娘を連れて行きました。

御殿場線に乗るのは数十年ぶりです。当時、沼津から御殿場へ向かうとき列車はスイッチバック(急勾配の坂道を登るので、列車がジグザクに進んでいく。行ったり戻ったりしながら少しずつ登っていく)方式でした。今もそうかと思ったら電車は何事も無く進み続けるので、なんとなく残念な気持ちでした。ただ、列車のドアは自動的に開くのではなく、ボタンを押して開ける昔のスタイルのままでした。

出発が遅かったので、御殿場に着く頃に夕日が富士山の山際に迫ってきました。
『太陽が沈んでしまうよ』と娘に言うと。
『日本の太陽が沈むとアメリカの太陽も沈むの?』と質問してきました。
『えっ?』と聞き返すと。
『一つの国に一つずつ太陽があるんじゃないの?』と言いかけて、自分の間違えに気づいた風でした。
驚いて、『地球が太陽の周りを回っていて・・・日本が太陽の反対側に・・・』と説明し始めたのですが、良く分かっていないようでした。

最近、新聞で小学生の多くが地動説を知らず、天動説を信じているという記事を読みました。ゆとり教育云々という識者のコメントもありました。

うちの娘も天動説支持者の一人だったのです。

ただ、事はそんなに簡単ではないように思えます。子供に地動説を説明するのはかなり難しい。
地球が丸く、自転しながら、太陽の周りを公転している。それを鵜呑みにさせておぼえさせても余り意味がない気がするのです。太陽は宇宙の中で動いているのか、銀河は動いているのか、宇宙が膨張しているのなら、太陽も移動しているのだろう。相対的な関係の中で、地球が太陽の周りを回っていると言って良いのか。そんな、馬鹿げたことを沢山考えました。

中学受験の理科では、太陽、地球、月、星座の動きをかなり詳しく扱います。公立トップ校の高校生も知らないような事柄でいっぱいです。そこでは、太陽は紙の中心に描かれ、全く動きません。それをたいして疑うことなく信じていくことになります。

日が沈み、駅舎の片隅で咲き始めた桜が電灯に浮かび上がる頃、国府津に着きました。