2015年3月23日月曜日

目で解く

何かの拍子に、生徒が黒板が見えていないのが分かるときがあります。中学生くらいだと、眼鏡を嫌がる時期でもあり、眼鏡をかけろと言ってもなかなか従わない者もいます。

さて、高校の数学です。ちょっと複雑な2次関数の問題に手が動いていない。じっと、おそらく考え込んでいる。考えるという行為は頭の中の処理なので、何もしないで考えることができると思っているのかもしれません。

しかし、考えることはそんな静的な行為ではなく、もっとダイナミックなものです。グラフをかくことと考えることはこの場合同義です。図形を描いてそれを見ることと図形の問題を考えることは同義です。

目は発生学的には脳の一部であり、考えるための中枢の出先機関(器官)です。そのことをもっと分かっていいと思います。

老眼になったころ、数学力が衰えたと感じることがたびたびありました。一度に脳に飛び込んでくる情報量が明らかに減ったからです。眼鏡を作り変えると、元に戻りました。

数学は目で解くのだとつくづく思った次第です。さあ、体を使って、作業をして数学を解きましょう。

何もしないで考えるなんてあり得ないのです。

2015年3月19日木曜日

高3の英語力

文部科学省が高3生を対象にした英語力調査の結果を発表しました。

「読む」「聞く」の平均的学力は英検3級(中学卒業程度)相当、
「書く」「話す」は更に低く、「書く」では零点が3割。

国の「教育振興基本計画」の目標(高卒時英検2級~準2級)とは大きな差があり、英語嫌いと答えた生徒は6割弱。

この結果は今の高校生の英語力をよく反映していると思います。新指導要領になって、高校での”英語の授業は原則英語で行う”というのもほぼ実行されていないようです。

2018年から実施される小学校に英語教科化によって小学校高学年から本格的な英語が実施されます。その結果考えれられることは

①小学英語が点数化される。
②私立中学の受験科目に英語が加わる。
③中学英語が難化する。

といったところでしょうか。

以前も書きましたが、個人的には細かな間違えを気にしない「自由で、大雑把な」英語教育が小中では必要なのではないかと思います。3単元のsを気にした瞬間に言葉は流れて生きます。英語をマザータングとしない人々にとってそうしたやり方もありでしょう。日本人の英語は「sが付いていない」とか「lをみんなrという」と言われても気にしない英語です。英語圏以外の人々の英語に触れるとそれぞれの癖があり、それでガンガンやっている。そうした方向性が日本の英語教育には殆んど無い。あくまで英米人の模倣をする。その限界があるように思えます。

2015年3月15日日曜日

思い違い

高3の生徒と話していたときのこと、
「今、ヘッセの”車輪の下”を読んでいます。知ってますか?」
「えっ、ヘッセの車輪の下?」有名すぎるほどに有名な作品です。「勿論、知ってるよ。俺は若い頃”彷徨える魂”と自分のことを言っていたんだ。ほら、”若きウェルテルの悩み”のさ・・・」
「それ、ゲーテじゃないですか?」
「あっ、そうか・・・。ゲーテか」
とほほ。

ある女性と話していたときのこと、
「エルミタージュ美術館へ行ってみたいです」
「そうですか、僕、若い頃、シベリア鉄道でヨーロッパに渡ったんでそのとき行ったことありますよ」
翌日。エルミタージュ美術館がペテルスブルグ(ロシア以前、ソビエト時代はレンニグラード)にあることを思い出しました。私は、レニングラードには行っていません。
「じゃあ、あれはどこだ?」
おそらく、モスクワのプーシキンまたはトレチャコフ美術館と入れ違ったようです。
なんてこった。

2015年3月7日土曜日

国立2次が終わって

国立2次を終えたAさんと話していたときのこと

「今年の漢文の出題は読んだことのある文だったので、完璧でした」
「へえ~。ラッキーだったね」
「この1年に300文以上読んでますから」

そうか。ラッキーといったのは失礼な話でした。それだけ読んでいれば、そういうこともあるでしょう。

そう言えば、大学の同期だったKは真偽のほどは分かりませんが、”古典文学大系”を全巻読んだと言っていました。やはり、同期のNは英単語のボキャプラリーが2万語(つまり小さな辞書一冊分)あると豪語していました。さらに、名著、高木貞治「解析概論」(これは私も高3の時買いました)を読破したという人もいました。

何かと問題視される受験勉強ですが、その中でちょっとした成果を成し遂げる人もいます。