2010年6月30日水曜日

積み重ねていくうちに

「あの先生は昔も頭が良かったから、僕らの悩みがわからないんだよ。」


塾の子供の持ってくる話の中には、たまにこんな内容があったりします。
たしかに自分が中高生だったときを思い出すと、何がわからないのかわからないと言った顔をする先生や、人の考えも聞かない頭の固い先生もいたなぁと思うものです。



しかし今、僕も複数の生徒を持って教える立場にあります。
そしてこの身になってはっと気付いたことがありました。

それは自分がかつてよりも大分押し付けがましくになっている、という事です。
元々主張が強い方ではなく補佐的な立場が落ち着く人間であった僕にとって、これは以前からは考えられない事でした。

もちろん今までも自分の常識と言うか、独自に作った考え方にはかなり頑固な方でしたが、それを他人に強いる事など殆どなかったように思います。



子供の頃と違って、最近は他人から丁寧に教えてもらうといった事が殆どありません。
自分で考えたり調べたり、例え教えてもらっても大枠だけだったりと、行動の大体は主体的な部分が占めています。結果、自分だけの小さな世界が出来上がっていたようです。

自分で言うのもなんですが、小さい頃は素直で受け入れる性格が学業の発展に繋がっていたと思っています。子供の頃は覚えが早いと言いますが、こういった所も要因なのかもしれませんね。



「先生は頭も良いいしわかりやすいし完璧だね!」



そんな事を言ってもらえるようになるべく、もっと子供達を等身大で見ていかねばと決意を新たにする今日この頃なのでした。

2010年6月28日月曜日

NASA宇宙飛行士との会談

山崎直子さんを含む、今年4月に国際宇宙ステーションに滞在した7人の宇宙飛行士との会談に参加する機会をいただき、今日米国大使館へ行ってきました。

それぞれのプレゼンテーションがあった後、宇宙飛行士の方々と個人的にお話させてもらえたので、いくつか質問してみました。

宇宙飛行士という特殊な職業に就いている方々ですから、周りに流されず自信を持って自分なりの決断、将来設計をしているはずです。どうしてそのようにできるのかと山崎さんに尋ねたところ、
「宇宙に行きたい人はたくさんいる。その中で自分が選ばれるためには他の人と同じことをしていてはだめ、常に自分オリジナルな考えを持っている」
「人生は一度きり。大抵の場合、やって後悔するよりも、やらなくて後悔する事が辛いと思う。だからチャレンジするんだ」
とおっしゃっていました。

最近では「はやぶさ」が無事帰還したことで、日本の航空宇宙技術が注目されています。自分たちの次?の次の次?の世代には皆が宇宙旅行に行けるようになるかもしれません。

2010年6月26日土曜日

藍色を英語でなんと言うか?

「藍色って英語でなんと言うの?」という質問がありました。
それに対して、「ピッタリした英語は無いなあ」と答えました。

藍色に近似した色ということであればダークブルーとかインディゴブルーということになるのでしょう。ただ、藍色は浅葱色のような薄い色のものから紺色のような濃い色のものもあります。さらに日本独特の染色の技術と染める布の感触がその言葉には付きまとっています。

「インディゴブルーの暖簾(のれん)」とか「藍色のジーンズ」というのはどうも似つかわしくありません。つまり、藍色とは藍によって染められた特殊な工程を経て作られた色を言うので、色そのものが同じかどうかは本質的ではないのだと思います。

専門の画材屋に行くと様々な青があることに驚きます。さらに、その原料によって微妙に雰囲気が異なります。同じ青でも油絵の青と水彩の青、テンペラの青ではやはり別ものです。そうした文化や伝統を背負って言葉はできています。全ての日本語が英語になるわけではないのです。

藍に関しては有名な「出藍の誉れ」ということわざがあります。「藍は藍より出でて、藍よりも青し」です。藍染は初めは薄い浅葱色ですが、何度も繰り返すとだんだん濃くなり、最後は紺色になるわけです。それが転じて「できの悪い教師から、できの良い生徒が生まれる」の意になります。

沢山の「出藍の誉れ」が塾から誕生しますように。

2010年6月24日木曜日

選択する手つき

電子辞書でappleを引くと、aを打ち込んだ瞬間に幾つかの単語が画面に出てきます。その中にappleが無ければ次の文字pを打ち込み、画面に出たものからappleを探すことになります。選択肢があってそこから目的のものを選ぶわけです。

センター試験を筆頭に受験の多くがマークシートを利用したものになっています。設問があり、その解を選択肢の中から選ぶわけです。設問に対して、自分の答えを提示するのではありません。選択肢がどのようなものであろうと、その中から選ばざるを得ません。通常の設問は『次のうち最も適当と思うものを・・・・』というようになっています。そこで、消去法による解答が流行するわけです。

テストのように正誤を問われる選択は別ですが、そうでない選択も沢山あります。今日何を食べるかとか、誰と遊ぶかとか、どの職業を選ぼうとか。そうした、ものを選ぶ手つきに人間の個性が出てきます。そんな選択を次々にして現在の自分があるのです。

さて、人生には選択肢の無い設問が満ち満ちています。現在の秀才たちが選択肢の秀才であることを考えると、彼らが未来をどのように切り開くのか、あるいは、切り開けないのか。気になるところです。

2010年6月20日日曜日

分け入っても 分け入っても あおい山 (山頭火)

先日八木先生と物理の話しをしていたときのことです。力学から物理が始まる場合、摩擦力をやるあたりで、分からなくなる人が多いのではないかという話になりました。あるいは、相対速度で既に躓く人も多いかもしれません。

高校の数学、理科についてはある程度生徒が困難を感じるところがあります。

化学では、物質量(モル)を乗り切れず脱落する人が夏休み前に沢山登場します。化学が苦手な人はほとんどここで落伍します。
数学は以前は軌跡が数Ⅰでしたから、そこで大量の脱落者が出ていました。どんどん数学が易しくなり、今の数Ⅰは昔の中学レベルですから、あまり、決定的な場所は見つけられません。強いて言えば絶対値の扱いや、二次関数の最大・最小が山場かもしれません。

そうした山場が時々出てきます。それを一つずつ、上手くやり過ごしていく。そうするとまた平坦な道になる。また、山に出会う。ちょっと頑張る。また、平坦になる。そんな繰り返しです。やがて、山の乗り越え方も上手くなってきます。

壁にぶつかったら、そこで少し頑張ってみます。ひと山越せば、また別の展開もあるのです。

今頃、化学で壁にぶつかっている多くの高校生がほんの些細なことで化学から離れていかないよう願っています。

2010年6月18日金曜日

中間テストが終わって

定期テストの結果がほぼ出揃いました。素点だけ見るとほとんどの人が点数を伸ばしましたが、その中にほぼ全教科でかなり点数が伸びた生徒が数人います。そうした子を見ていていると、何か変わったなと感じます。心の中に変化が起こっているようなのです。そんな内面の成長が爆発的な成績の伸長に大きく関係しているのです。

中学受験は「精神年齢の勝負」といわれます。遊びたい盛りに勉強漬けの生活をするわけですから、それを受け入れることができる子とできない子の差はとんでもなく大きなものです。いわゆる頭の良し悪しよりもその部分の差が結果に大きく影響します。

社会全体がマニュアル化している現在、勉強や受験もその限りではありません。ますます、小手先の技術に走るようになっています。そうした技術は誰にでも有用であることを前提にしますから、最も計りづらい個々の内面的な部分を捨象します。その結果、「偏差値40からの東大合格」という広告を見て『誰でも』偏差値40から東大が受かると錯覚する人が出てきます。偏差値40から東大合格する人には間違いなく内面に何かが起こっています。それは予備校の授業で技術的(マニュアル化で)に与えられるものではありません。

勉強がどれだけマニュアル化しても、その根底の部分を支えるのは今も昔も心の部分です。内面の成長無しに、大きな成績の変化はありません。その部分を、どれだけ、そしてどのように刺激し続けるか。それは教える側の課題です。

2010年6月17日木曜日

なぜ塾をやっているのか

今日も授業の後に塾長といろいろと話をしました。

もうすぐ夏休みが来るので、塾としてはアピールしたい季節です。
悠々館としてもご多分に漏れず、どうやって新しい塾生を増やすかをテーマに頭を捻らなければなりません。
そんな話をしつつ、今日はもう少し根源的なことを書きたいと思います。

なぜ塾をやっているんだろう、と。

僕は塾で生徒を教えることが好きです。
僕以外の講師陣も教えることが好きです。
塾長は多分僕たち以上に教えることが好きだと思います。

じゃぁ好きなだから仕事にしているのか、と。

それだけでもないんですよね。
好きだからだけでもなく、そこには別の理由もあるはずなのです。

はてさて、なんで塾をやっているんだろう。

お金を稼ぐためという理由はもちろんあります。
でもそれはきっと、目的ではなく手段なんですね。

例えば日本全体を幸せにしたいという高い志を持った社長がいたとして、志を実現するために頑張ったとする。
でも利益が出なければ一番身近な"社員たち"を不幸にしてしまうわけです。
志がどうのというよりも現実的に身近な人が不幸になってしまう。

じゃぁ利益を出すために仕事をするのか、と。

それもやっぱり違うわけです。

金を稼ぐことを目的にしてしまったら、それは空虚です。
僕が思うに、利益は目的を達成するための手段なわけです。

じゃぁ、塾をやっている目的はなんなんだ?と。

これについては、この一言が一番言い表してくれていると思います



財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上
                            元楽天ゴールデンイーグルス 野村監督
  

学校でも塾でも、講師をやっている人は、きっと人を育てるのが好きなはずです。
ある生徒が昨日できなかった問題が今日できるようになって、嬉しそうな顔をする。
そうした小さな積み重ねが、彼の人生で積み上がっていって、やがて大きな体験として残っていく。

学校だけではなく、悠々館で教えたことが彼の人生に何か意味を残せたら、それはきっと大いに嬉しいし、日本全体に意味のあることのはずです。

やはり生徒を育てたいという想いこそが、塾をやっている理由なんだろうなぁと思うのでした。

悠々館を巣立った生徒が社会で活躍して、そして再び塾で集まって、みんなで旨い酒が飲めることが、今の僕や塾長の一番の夢です。
(ある意味、叶っているんですけどね。)


ということで、今週の詩・句を更新しました

やった!

日本がカメルーンに勝ったその日、もっと嬉しいことがありました。

数学が決して得意ではないY君が、中間テストの数学で塾生の最高点を取ったのです。
今までの数学の点数と比べると天と地ほどの差なのですが、その予兆はありました。
テストが近づいた頃、「できるようになるので、塾に来るのが楽しみ」というようなことを長尾先生に言ったらしいのです。そう言えば、テスト前日の授業後、八木先生に延々と理科を教えてもらっていたのも彼でした。

その晩、彼が送ってくれたメール「先生、数学・・・点でした」を何度も見ては、酒量が増えるのでした。

2010年6月14日月曜日

丸付けについて

最近こんなことがありました。
ある中学生が「学校のワークを提出するとき、丸付けをしてなかったので内申が下がるかもしれない」と言うのです。「丸付けまでして、提出するようにという指示があるのにしなかった」のです。

実はその子に「丸付けなんか必要ないから、しっかりとバツ付けをするように」と指導していました。そのため、解の確認はしたものの、丸は付けず、間違えの訂正だけ赤でして学校に提出したのでした。

僕は丸付けより、バツ付けが重要だと考えています。小学校低学年はともかく、中学以上は丸付けを止めてバツ付けにすべきだと。その理由は”問題が解けたことの確認が重要なのではなく、できなかった問題の認識こそ重要”だからです。

小学生は丸がつくことに喜びを感じますから、丸を派手につけることに意味があります。しかし、大学受験生が数学の問題にいちいち丸付けをしていたとしたら、余りに幼い感じがします。丸ではなく、しっかりと間違いをチェックする・・・そんなバツ付けこそ重要です。

もし、上記の中学生の内申が下がったらその原因のほとんどは僕にあります。と言うのは、テストの点、ワークの内容、その他はほぼ完璧だからです。学校のワークだけは丸をつけるように指導すべきだったのでしょうか。いろいろ反省があります。

2010年6月13日日曜日

学校でちゃんとやってる?その1

中間テストが終わりました。かなりの補習をしたので、結果が楽しみでもありますが、成果や如何に?

高得点をとる人とそうでない人の二つに大雑把に分けるとして、その一番の違いは能力の差とか勉強方法の差というものによるわけではありません。
勉強以前の問題、強いて言えば内面の差とでも言えるものです。

内面の差が表面に出るのは次のようなケースです。うんと、具体的に書くと。
①勉強中に頬杖をつく。
②椅子にきちんと座れない。
③鉛筆等をよく忘れる。
④『めんどくさい』と頻繁に言う。
⑤質問を聞き返す。(キチンと聞いていない)
⑥言い訳が多い。
⑦学校の授業で何をやったかを言えない。
⑧同じ間違えを繰り返す。
⑨宿題や勉強をごまかそうとする。
⑩勉強中に左手が使われない。
⑪等など

特に⑦です。学校での学習をしっかりしなければなりません。
定期テストに1から10まで出題されるとします。
学校で1から7まで身に着けていれば残り3をテスト前にやればよいのです。
学校で1から3までの人は残り7をやることになります。現実的には7から10はできないままです。
学校で0の人は、3までやるのが精一杯かもしれません。

今日、自分が学校でちゃんとやったか確認する一番簡単な方法は、各教科何をやったか簡単にノートに記入することです。数学:連立の代入法。英語:レッスン2、理科:湿度の計算、等を書いて蘇らせることです。何をやったかすぐ思いつかない場合は授業の半分も集中していなかったと考えてよいでしょう。
毎日、最も多くの時間を学校で過ごすわけです。仮に50分授業として、40分集中しているA君と20分集中しているBさんがいるとします。一日5時間授業として、二人の学習量の差は20×5=100分(2コマ分の差がついています)。これがひと月で約100×20=2000分(40コマの差です)。この40コマの差は塾の授業の一か月分よりもっと多い時間です。A君が塾に行かなくても良い成績をとるとして、当然のことなのです。こんな当たり前のことが中学生は案外わかっていません。

2010年6月11日金曜日

きっと講師の熱意は生徒に伝わると思うんだ

教えている中学生が今日、明日とテスト期間です。

僕は普段数学と英語を教えているのですが、今はテスト期間なので、今日は明日のテスト科目である、数学と理科を教えました。

数学は連立方程式。
理科は天気と湿度。

普段は理科を教えていないので、最初は探り探りでしたが、途中から熱が入ってきて、湿度について分かるまで何度も何度も何度も何度も教えました。

計算式自体は簡単なのですが、
・空気中に水が水蒸気となって溶けている
・温度が上がるほど、空気中に溶けられる水蒸気量が上がる
・ある気温で溶けられる水蒸気量を飽和水蒸気量という

といったことを本当に理解できるまで、何度も何度も教えたのです。

気がつけば授業の時間は終わり、1時間以上延長していたのですが、しつこくしつこく教えました。

生徒にも熱意が伝わったからか、もしくはテスト前だからか分かりませんが、「何とか理解したい」という気持ちが伝わってきて、僕もさらに熱が入ってしまいました。

生徒はきっと分かりたいはずなんです。
とはいえ、生徒によって理解する速度に違いがあり、授業の時間数も限られているので、どうしても分かる前に次の単元に進んでしまうのです。

でもやっぱりなんとか教えたい。
問題を解くためのテクニックだけではなく、そもそもの話を理解してもらいたい。

そう考えてちょっと熱くなってしまいましたね。

教える立場になると分かるのですが、"勉強ができるかどうか"よりも、"本気で分かりたいと思っているか"の方が大事です。
「先生、俺はこの問題が解けるようになりたいんだ!でも分からないから教えてくれ!」と言われたら、なんとしても分かるまで教えたいと思うものなんです。

それは生徒の熱意と講師の熱意の両方が必要なので、毎回そういう空気になるわけではないのですが、今日は少しそういう空気が流れたような気がします。


明日のテストで今日教えたことがどの程度できるか分かりませんが、来週の僕の授業の時に、一人でも多くの生徒が良い顔をしているといいなぁ。


みんな頑張れ!!

2010年6月7日月曜日

6月4日金曜夜

先週金曜日から土曜日の中2補習の様子です。

4日金曜日
午後4時頃~7時頃 補習
午後7時~9時半   通常授業
午後9時半~12時  補習
5日土曜日
午前9時~12時   補習
午後2時半~5時     補習

休憩を入れながらの長時間学習でした。忘れないうちに反省をしておきたいと思います
①4日は良好。
②塾で仮眠を取るとき、レジャーマットかダンボールのようなものを持ってきた人はそれなりに休めたと思いますが、椅子を集めて作ったベッドに寝た人は熟睡できなかった。生徒が楽しみにしていたので実行しましたが、家に帰らせるべきでした。
③疲れからか5日午後は集中力を保つことが難しくなっていた。

金曜夜は、授業をしている教室の反対側の教室で八木先生と長尾先生が宿題管理について熱い議論を深夜までしていました。

日曜日に提出物等が終わっていれば(いるはずです)、今日からラストスパートです。

父兄の方々から差し入れをいただきました。ありがとうございます。

趣味その1

中学生と話していたとき、「ぼくはミステリーが好きなんだ」と言っていました。それを聞いて、「あっ。そういえば、僕もミステリーが好きだったんだ。」と思い出しました。

僕のミステリー好きは小6の夏に始まり、大学1年の夏に終わります。明確に初めと終わりがあります。

初めは金沢での小学時代です。家の隣に木造の古い児童図書館がありました。そこでA.A.ミルンの「黄色い部屋の謎」を読んだのです。ミルンは熊のプーさんを書いた作家です。表紙を開けると赤いセロファンのページがあり、その次のページに多分、和田誠のイラストが書いてありました。それをみるだけでなんだか胸が苦しくなったものです。

そのひと夏、コナン・ドイル、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティ、ヴァン・ダイン、ディクスン・カーといった著名な作家の作品が子供用に書き直されたシリーズ(30冊程度?)を毎日図書館の閲覧室の長いすに寝そべって(横になって読んでいても良かったのです)読んでいました。それまでの夏休みは毎年カブトムシとクワガタムシを捕まえることや川遊びに費やしていたのに、大きな方向転換でした。勉強をした記憶は何もありませんから、今の子供に比べると幸せな?小学生でした。

それから中・高・大と外国のものを中心に驚くほど沢山のミステリーを読みました。

旅にでるとき、下宿に置いてある大量の本を処分しました。エド・マクベインのシリーズを神田の古本屋で売って、そのお金で、友人とカツ丼を食べ、旅に出たのです。それ以来ミステリーを読んでいません。


2010年6月4日金曜日

限界の外

中間テストが近づいてきました。
今日の中2の授業は深夜12時までの予定です。その後、家に帰る人と塾で仮眠をとる人に分かれて、翌朝9時から授業開始、途中休憩を挟んで、夜まで勉強を続けようと思います。
以前、高校生の授業をほぼ徹夜でやったことがあります。そのときの話をしたところ、「俺たちもやりたい」ということになったのです。
中学生なので、徹夜は無理として、このような形になりました。

長時間の勉強が本当に効果的なのか疑問はあります。
それでも、こうした試みをする一番の理由は「自分の限界を知って欲しいからです」 もっと正確に言うと「自分の限界が自分で思っているよりもっとずっと大きいことを知って欲しいからです」

最近、ある進学高校の先生と話をしました。「センターまでは団体戦なんだ」といっていました。皆で一緒に勉強し、勢いでセンター試験までは行ってしまう。2次試験から個人戦だということのようです。確かに、団体でやると1人では大変なことが軽くできてしまうことがあります。長時間の勉強はそうした団体戦でもあるわけです。

人生を語らず

フォーク歌手、吉田拓郎が「人生を語らず」というレコード(CDではないです)を出した頃、ぼくは人生を語りまくっていました。それから、だんだん人生を語ることをしなくなり、最近はめっきり語る機会が減っていました。

先週、中学生の授業中にひょんなことで勉強の意味と人生の意味を語り始めました。それは、中学生には難解な話だったと思うのですが、思いのほか皆、聴き入っていました。
若い子には通じないと思っていたのはこちらの思い込みだったのかもしれません。折を見ては彼らに語りかける。それは幾らか早く生まれたものの使命のような気がします。

数学以外に何か少しでも彼らの心に残れば・・・・望外の喜びです。