2011年1月28日金曜日

前期終了

公立高校入試前期選抜が終わりました。

高校近くで、緊張した面持ちの受験生を沢山見かけました。
皆、見るからに中学生で、ある意味幼くすら見えます。
『そうか、あんなもんなのか』と妙に納得してしまいます。
入学し、半年もすると、どこから見ても高校生に見えるから不思議です。
それだけ外面も内面も成長が早い時期なのでしょう。

3週間後に後期選抜があり、彼らの中学生活もほぼ終了です。
悔いの無いようにやって欲しいと思います。

2011年1月27日木曜日

スパイス

今日は近年流行りのフィジカルコンピューティングを体験してきました。
フィジカルコンピューティングとは、例えばwiiリモコンの様に振ったり傾けたりする事で装置を動かす「マウスやキーボードよりもよりダイレクトに人間の動作を反映した」技術の事を指します。


どんなに頑張っても全く内容のわからない人に説明できる内容が書けなかったため、細かい部分は割愛します。「百聞は一見に如かず」とはよく言ったものです。
とにかく僕が体験したことは
・wiiリモコンの様なものを作った。
・それは豆電球に電池をくっつけて完成という内容と同じ位簡単だった。
・これを応用した何かを考えて、プレゼンして下さい。
という事でした。


最後に応用してプレゼンした訳ですが、僕が作成した装置は本当に単純な物でプレゼンテーションという体裁を成すためには「何か」が足りませんでした(簡単に言えば面白そうに見えなかったのです)。
そこで装置の一つとして(こんな事もあろうかと持ってきた)木彫りのペンギン(12体)を組み込むことにした所、ペンギンと調和したこの装置は無事「何か面白そうな物」に変わる事が出来、プレゼンテーションもしっかりとまとめる事が出来ました。


もちろんこの装置はペンギンを使わなくても動きます。
これは以前の日誌(「真価を説く」http://www.youyoukan.com/2010/10/blog-post_14.html)でも述べた様に、物事の実質が表現方法によって変わった例です。
今回は短時間での製作だったのでデザインに頼りましたが、「この方法はケースバイケースだぞ」と自分を戒めた体験でもありました。

2011年1月25日火曜日

貴校と御社

明日、公立高校前期選抜試験です。

今日も例年と同様に前期受験者相手に面接の練習をしました。
学校で練習をしてきているので、ほとんど手を加える部分はありません。
少し気になったことを指摘し、明日は自信を持ってやるように伝えて終わりました。

最近、公立高校の自己PR書や面接がパターン化して、かなりうんざりしています。その中でも一番嫌なのが、『貴校』という言い方です。この表現はいつごろから定着したのでしょうか?そして、この言葉に違和感を持つ人はいないのでしょうか?私自身は拒絶反応がとても強く出てしまいます。

同じような言葉に『御社』というのがあります。

春になると、コピー機のセールスの電話が頻繁にかかってきます。まだ、入社間もないと思われる声の主から『御社では今どちらのコピー機を・・・』と言われるともうそれだけで、電話を切りたくなってしまいます。

もう少し何とかならないものでしょうか?

2011年1月23日日曜日

勉強の意義

最近まわりでこんな言葉を良く聞きます.

「あ~,もっと勉強しておけば良かったなぁ」

日本の現在の教育システムは高校までが大部分を占めるように感じます.
大学は,個人のやる気次第というか…

やるべき時にその必要性を感じず,時が過ぎてからはっと気付く,
何とも切ない気持です.

気づかないくらいなら,無理やりやらせるか,しかしそれが果たして彼らの幸せにつながるのか.

やるべき時の生徒たちにいかに「自覚」してもらうか,それが問題です.

2011年1月21日金曜日

自分に告ぐ

センター試験が先週末に行われました。
結果の出た人・出なかった人と様々でしょうがまだ受験は始まったばかりですので、受験生は次を見据えて日々の努力を継続してほしいところです。


今日はニュースでも取り上げられたこの内容について。
シカゴ大学の心理学者Sian L.Beilock准教授の実験によると、試験に関する不安を試験開始の10分前に紙に書く動作について、行ったグループと行わなかったグループとの間で成績に差が出ることが明らかになり、同動作の有用性が証明されました。この内容は既に論文としてScience誌に掲載されています。


人間の記憶には「ついさっきの出来事」を記憶する短期記憶(ワーキングメモリ)が存在します。
同准教授はこのワーキングメモリには限りがあって、心配事のある人はこのメモリを心配事の内容で埋めてしまうため、試験時に問題や計算過程を記憶する力が弱まると主張しました。
紙に書き出すことはこのメモリから心配事を掃き出す効果を持ち、結果実力が出しやすくなるという訳です。


僕もセンター試験前・国立前期の試験前には似たような事をしていました。
僕の場合、試験の前日に当日の自分に対して「ここまで頑張ってきた事・君の準備は万全だという事・詰まったらとりあえず飛ばせという事・この一回を頑張りなさい」といった内容を文章にして書いておきました。当日の自分がこれらの内容をちゃんと考えているかどうかわからないからです。
この行動の効果はあったと思っています。自分の望む以上の結果が付いてきたことがひとつの証明です。
当日の自分が何を考えておけばよいかまで前日に用意しておくことが、「明日の支度」なのだと思います。


僕の例もBeilock准教とは方法こそ違えど、思想は同じです。
今日は昨日までの積み重ね。
明日は今日の行い次第。
大事な一番の前等、試してみてください。

2011年1月19日水曜日

ルビ

月に一度 YouYouKanNews という小さな新聞を月謝袋に入れて配布しています。

小学生が読むことも考慮して、全ての漢字にルビ(読み仮名)を振っていた時期があります。内容もできるだけ簡単な言葉や表現にしていました。その方が読みやすいからです。

5~6年前からそれをやめることにしました。幾つか理由があります。

全ての漢字にルビを振るとかえって読みづらいということ。限られた紙面にもかかわらず、その約4分の1程度がルビのせいで減ってしまうということ。特に、後者の理由は決定的でした。

さて、近隣の中学校の数学の問題は全ての漢字にルビが振ってあります。小学低学年レベルの漢字(つまり、どんなに易しい漢字)にもルビが振ってあります。使っているソフトの関係なのか。漢字に関係なく、数学の力を知りたいからなのか。理由は分かりません。

問題は必ず、下のように始まります。

    つぎ   と       こた
    次 の問いに答えなさい

 き                    かんじ  よ  のうりょくじょちょう            そがい
気になるのは、それが漢字を読む能力を助長するのか、阻害するのかです。

2011年1月14日金曜日

後期選抜まであと・・・

高校入試が直前に迫ってきました。

中3のある生徒と『英語が45点を越したら、今日の授業は止めにしよう』と約束して、過去問を解き始めました。

一回目、二回目と惜しいところで届きません。三回目、四回目。少しずつ点が落ちてきました。その頃には、私たちは意地でやっているようなものでした。五回目、六回目。疲労してきたせいか、点は伸びません。七回目、ぎりぎりで届きません。

時間もたいへん長くなり、疲労の色も見えていたので、目標を達成できずに止めることにしました。本心は3~4回で目標を達成し、さっさと他の教科をやるつもりだったのですが・・・・。『達成感を味あわせよう』と思って、『疲労感を味あわせてしまいました』

さて、帰り際にその生徒が『家でやるので、解答用紙をコピーしてください』と言ってきました。そして、コピーした解答用紙を20年分の過去問と一緒に鞄に詰めて帰りました。

どうか、20年分やる前に目標達成できますように。

もう差はついている

日本中に『伊達直人』が現れ、ランドセル等のプレゼントが相次いでいます。TVでそれを見ると目頭が熱くなります。

何と言ってもランドセルは特別です。それを背負った新小学生は『ピカピカの一年生』です。体に不釣合いな大きなランドセルを背負った新入生を見ると、微笑ましいと同時に、彼ら(彼女ら)の未来が等しく洋々たるものであることを願いたい気持ちになります。

一方、新中学生です。学力という一点に関して、その差は圧倒的です。
公立中学に進学する場合、受験をくぐるわけではないので、学力は明確に把握できていません。小学校でするテストは難しいものではなく、学力の差を判断する基準にはなりません。そこで、本人にも、その周辺にも勘違いが出てきます。『ぼくはできる。私はできる』と。

中一の夏休みまでは易しいことを時間をかけてやっていますから、その差に気づきません。『あれ、おかしいなあ』。『こんなはずではないのに』と考える人が増えてくるのは夏休み過ぎです。『急に難しくなった中学の勉強についていけなくなった』という考えもできますが、実際は小学校のときに小さく見えた差が明確になった場合が多いようです。

例えば、中1数学の最初の難関は『正の数・負の数』です。しかしこれは教え方を過たなければ、案外簡単?に身につきます。問題はそれを分数や小数のレベルで自由にできるかです。(-1)-5と同様に、(-2/3)-4ができるかどうかです。こうした部分は小学校でのトレーニングの差が出てくるところです。そして、その後も様々な局面でその差が顕在化してくることになります。

残念ながら、スタートの段階で、かなり大きな差がついているのです。

2011年1月12日水曜日

深夜の雪

寒い日が続きます。一昨日は夜半から雪がちらつき、それをしばらく見入っていました。

        『太郎を眠らせ 太郎の家に雪降りつむ
        『次郎を眠らせ 次郎の家に雪降りつむ』 
                         (三好達治)

おそらく小学校のときに、この詩を読んだのではないかと思います。そのとき、この詩が好きというわけではありませんでした。とても普通の詩だと思ったことだけをおぼえています。

私は石川県の金沢にある小学校に通っていました。冬になると、日本海側の空一面に雪を孕んだ重い雲が垂れ込めていました。冷たい冬の空気と、薄暗く低い空。いくらか陰鬱な感覚。それが今思い出す。北陸の冬です。作家泉鏡花や詩人室生犀星の作品に通奏低音として流れるものは金沢の冬なのでしょう。

深夜に雪を見ると、当時の感覚が一瞬に蘇ってきます。そして、頭の中に、『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ、次郎を・・・』が流れてきます。ああ、良い詩だなあと思います。この詩が好きになるために沢山の時間が必要だったんだなと感じます。長い時間の中で熟成したものがあるのでしょう。

学校教育(特に小学校)ではできるだけ古典的なものを沢山身につけられると良いと思います。そのとき、わかるようなものである必要はありません。いつかそれが時熟し、開花するかもしれません。分かることばかりを気にするより、たとえ分からなくても、質の高い良いものを沢山与える。そうしたやり方あるような気がします。

2011年1月9日日曜日

受験始まる

一部の中学入試が始まり、今週末にセンター試験、2週間後に公立高校前期選抜。そして、2月から一斉に中、高、大の受験が始まります。

生徒の受験は自分自身の受験とたいして変わりません。自分自身の受験よりずっと胃が痛くなることもあります。その一番の理由は彼ら、彼女らの努力を知っているからです。

『努力は報われるべきだ』と思います。実際、多くの場合その努力は報われるのですが、そうでない場合もあります。自分の無力を感じる瞬間です。彼らの努力を成果として結実することができなかったという悔恨を抱きます。

また、その時期が巡ってきました。長時間塾で学んでいる生徒の帰り際、『頑張れ、きっと良いことあるぞ!』と声をかけ。それを祈ります。

努力が報われないことはあります。しかし、努力なく成果を得る人間がほとんどいないことも事実です。

『努力は報われなければならない』 それは、私のささやかな信念です。

遅くなりました。今年もよろしくお願いします。

2011年1月7日金曜日

しなければならないことをどうやって好きになるか

昨日の授業の際に、中学生に国語の問題を解かせていたのですが、あまり点数が良くなかったので、なんでだろうという話をいろいろとしました。
その中学生曰く、どうしても国語の勉強をしていると眠くなってしまうそうです。
そして、眠いのであまり集中できず、問題も適当に答えてしまった、と。
その点は自分でも自覚していて、だから結果が悪かったこともある程度予想通りだそうなのです。

で、僕はテストの時も国語は眠くなっちゃうのかな?と聞いてみたのですが、テストの時は眠くならないそうです。
ですが、普段の勉強の時は眠くなるらしいです。

思えば僕も学生の頃は、嫌いな科目、僕の場合は社会の授業中は眠くなったなぁ、と振り返ってみました。
そしてテストの時はやはりいい点取りたいので、眠くはならずに何とか頑張ったように思います。
ですが、結果として最後まで他の科目よりも社会の成績は悪いままでした。

その後、高校受験の時や、大学受験の時は嫌いな科目でもやるしかないと割り切れたので、そこそこ集中して勉強できるようになりました。

全教科、つまり勉強そのものが好きな人はほとんどいないでしょう。
教科ごとに好き、嫌いがあり、好きな教科を勉強する方が、嫌いな教科を勉強するより集中できるでしょう。
嫌いな教科は何とか勉強しない言い訳を考えてしまう気持ちが分からないでもありません。

そして特に苦手な教科をなんとか勉強させるために、「机に向かって、勉強しろ」と言うことにどの程度の意味があるのか。
「嫌いなことを歯を食いしばってやる」という行為は大人であってもかなり厳しいものです。

そしてそんな話に結構な時間をかけた後、その生徒は残った10分ほどでそこそこの量の英語の問題を解きました。

きっと生徒それぞれ、「なんとかいい点を取りたい」、「そのためにはもっと勉強しなければならない」と言った想いがあるんだろうなぁと思います。
ですが、それでもやはり、目の前の苦痛、困難から逃げてしまうのではないかなぁと。
だからそういった生徒たちも、テスト前はある程度の集中力を発揮するのでしょう。

僕が考えていることは、「結局「勉強しろ」と言って無理矢理勉強させることは意味がない」ということではありません。
そこまで極端ではなくて、もっと良い方法があるのではないかと考えているのです。
よほどの天才を除いて、いやいや勉強し続けた人で、例えば東大に行った人は少ないと思うのです。
どこかで自分なりの楽しみ方というか、やり方を見つけられた人が良い成績を出せたのではないかなと。

いかに「やらされている感」を「やっている感」に変換させられるか。
それが講師の役割ではないかなと。
そしてそれがとても難しいということは分かっています。
だからこそ、大半は「やりなさい」という強制的なアプローチで勉強させようとしてしまうということも。

僕が一つ思っていることは、今回の経験を通して、もっと生徒の意見を聞くことが必要だろうということです。
生徒の悩みを聞き、生徒に自分で考えさせ、僕らはそれを手助けする、というスタンスを取り入れていくということも必要なのではないかと思っています。

難しいことですが、それに生徒とともに挑戦していくことが、教育に携わるものとしての醍醐味の一つだと前向きに考えます。

そんなことを話した後だからか、バリーさんの名言を思い出しました。
今日初めて知ったのですが、バリーさんってピーターパンの著者なんですね。。

幸せの秘訣はやりたいことをするのではなく、やらなければならないことを好きになることである

                            ジェームス・マシュー・バリー


ということで、今週の詩・句を更新しました。

今年もよろしくお願いいたします。

2011年1月1日土曜日

元旦

明けましておめでとうございます。

塾生のY君からの年賀状を戴きました、ありがとう。
肝心の僕は書くものが多くて間に合いませんでしたが、しっかり手作りで返します。
普段は書いた絵をスキャナに取り込んで葉書にするんですが、今回はスキャナが無くてマウスも壊れた状況でしたので右の様なイラストにしました。


長方形の板は扉です。
今年も沢山の選択肢に惑わされますが、バシッと選んで進んでいこう!というメッセージを込めました。
それでは今年もよろしくお願いします。