2011年6月30日木曜日

学習の基礎

旧学区最上位高の1年生に数学を教えていて毎年思うことです。

彼らには最低限の学力の基礎はありますが、学習の基礎があるとは限りません。

学習の基礎とはできなかった問題をどのように扱うか、復習をどのようにするか、ノートをちゃんと書けるか、字を丁寧に書けるか、図形を分かりやすく描けるか。といったことです。特に復習をする習慣と方法を確立しているかは重要です。

ある程度優秀な、特に男子の中にこうした学習の基礎(勉強に関するしつけとも呼ぶべき部分)の無い者がいます。今までそれでやってこれたので、細かなこと、できなかった問題を復習するとか、字をきれいに書くとか、図形を大きく見やすく描くとかに関する注意になかなか耳を貸さないのです。

もしも、彼にとんでもない能力が備わっていたら、それで通せるかもしれません。しかし、残念なことに、たいていの人はそうした能力を持ち合わせてはいません。ちょっと自分のスタイルを変える。それだけで良いのですが、若者も老人に劣らず保守的にできています。なかなか簡単ではありません。

元桐朋学園大学学長の江藤俊哉氏がこんなエピソードを語っていました。彼が若いころ、もう高齢だった世界的バイオリン奏者のメニューインと話をしていました。そのとき、バイオリンの持ち方の話になり『先生、バイオリンの持ち方は今はこのように持つのが主流です』といって、江藤がバイオリンを持って見せたそうです。すると、もう50年以上毎日バイオリンを弾いてきた世界有数の老バイオリニストは次のコンサートのとき江藤から教えられたバイオリンの持ち方で演奏をしていたそうです。たいしたものですね。

毎日少しずつ自分を変えていく。少しずつ脱皮していく。それが成長の証だと思えるのですが。


2011年6月28日火曜日

とんでもなく不愉快な番組

遅い時間に帰宅し、TVを見ながら一人で食事をします。TVはなんとなくチャンネルを回しながら、気になるものを見るといった見方です。

『英語の参考書・辞書に載っているとんでもなくおかしい例文ベスト3』というような内容の番組でした。第2位の例文は『地面に顔がつくほど背中の曲がったおばあさんが・・・』というものでした。

登場していた3人の芸能人がその例文の滑稽さをいろいろ揶揄しました。『こんなばあさんいるわけねえだろ』と腰の曲がったおばあさんのまねをし、『杖持ってたら、一番下を握っている』といってそのまねをして3人で大笑いをするという内容でした。その3人のうちの1人は『東京シティーボーイズ』の『きたろう』でした。彼の年齢から考えて、そうした老人が日本に大勢いたことを知らないとは思えません。

長い労働の中で、体が深く折り曲がり、(英語独特の誇張があるとしても)顔が地面につくほどに腰の曲がった老人はこの国には沢山いたのです。彼らがこの国の農村と現在の発展の礎を作ったのです。最近そんな老人を見ることはほとんどなくなりました。でも、忘れてはならないのです。体が変形するまで過酷な労働を不平を語ることなく長期にわたり、黙々とこなした人々のことを。

田舎に行くと、今でもそうした老人に稀に会うことがあります。心の中で深く敬意を払う以外に何ができるのでしょう。

2011年6月24日金曜日

大学生に数学を教える

 大学に合格して、塾を止めた生徒から数学を教えてくれとか、化学を教えてくれと頼まれることがしばしばあります。数回の授業ならアフターケアとして無料で見ています。高校のときは違った、より成長した生徒と大学レベルの数学をする。なんとも言えず楽しいものです。
 難関大学の場合、文系学部でも経済や経営は数学を必修とするのが普通です。行列を中心とした線形代数の学習は避けられません。にも拘らず、私大文系は数学を受験科目からはずしています。それは受験生を多く集めたい(数学を受験科目にすると、受験生が激減する。そうなると受験費用が稼げない)という大学側の経営的判断で、学問的判断ではありません。
 高校時代ほとんど数学を勉強せず、早稲田の政経に入ったものの、数学の単位をついにとれずに退学となった友人がいます。最近は推薦・公募・AOといわゆる学力検査としての受験を経ない入学者の比率が大きくなっています。そのため、物理を全く知らない工学部・建築科の学生や化学を履修していない薬学部の学生といったケースが普通にあります。
 日本の受験システムはとっくに実情に合わなくなっています。様々な権益や巨大になった組織、そこで働く人々。学問とは無関係なところでこのシステムが維持されているようです。

炎天下と俳句

学生時代、俳人・山口誓子(やまぐちせいし)の弟子である工学部教授が主催していた作句ゼミをとったことがあります。俳句を作って単位が取れる、しかも、『優』が乱発されるという噂でした。これはとるしかないということで、畑違いですが、その講座をとりました。

毎回、五首の句を作り。輪読し、気に入ったものに票を入れるというパターンでした。その中に、今でも蘇るものが数首あります。

今日のように、雲ひとつない、30度を越す日中の、眩暈(めまい)を起こすような日差しのときに、決まって思い出す、

       ・・・・    母 逝くと 
              友 言い放つ 
              炎昼や      ・・・・

東京の大学に出てきた作者が夏休みに帰省した折、炎天下、高校の友人から『母親が死んだ』と告げられた時の句です。

もう一首。これは一緒にゼミをとった友人の作です。

       ・・・・    母よりの
              メロンの包み
              腐りおり     ・・・・

九州の田舎の母が送ってきた小包を開けると、中から腐ったメロンが出てきた。今のように宅急便の無い時代で、九州から東京はかなりの時間がかかっていました。おそらくそのメロンは母親が誰かからもらい、仏壇に供えていたもので、当時高価なメロンを是非とも東京の息子に食べさせたいと思い送られたものなのでしょう。

最後に私の駄作

       ・・・・   三寸も
             雪 積もれりと
             母 起こし     ・・・・

偶然ですが、三首とも『母』という語があり、田舎から東京に出てきた大学生のある種の共通な心情を感じます。

2011年6月19日日曜日

気持ち

各中学の定期テストが1週間ほどずれてずっと続いています。

同じような能力の人が、同じ教材で、同じ内容で、同じ時間をかけても結果に大きな差が出てきます。その差は気持ちの差です。

積極的に身につけるつもりで学んでいる場合。心と頭が開かれています。いろいろなものが入りやすくなった状態です。

テストが近いから、いやいややっている場合。心と頭の入り口が閉まっています。知識が入りづらくなっています。

乾いた砂に水がしみこむように、学んだことが体に入っていくことがあります。若いころヨーロッパを長く旅していました。パリのレストランでアルバイトをしていたとき、昼休みの僅かな時間に『アリアンス・フランセーズ』にフランス語を習いに行くことにしました。様々な事情で自由に勉強することのできる時間は寝る前の30分とアリアンスへ通うメトロの中の30分だけでした。薄暗いメトロの中で、アリアンスのテキストの文章が四肢の隅々まで染み込むように入ってくるのをまさに体感していました。何事でも覚えられるときは一回で覚えられるものです。

心を外に向かって開く。知識を喜んで受け入れようと心がける。学ぶときにはそのことを忘れてはいけません。

2011年6月17日金曜日

アメリシウムとキュリウム

こんな小さなニュースがありました。

『東京電力は27日、福島第一原子力発電所の敷地内土壌から、放射性物質アメリシウムとキュリウムを検出したと発表した。』

現在、元素は原子番号1番の水素(H)から原子番号118番のウンウンオクチウム( Uuo )まで、約120種が存在、或いはその存在を予測されています。

その中で、94番のプルトニウム以降のものは殆んどその名を聞く機会がありません。周期表の中でしかお目にかかることはないと思っていました。そんな、原子番号95番アメリシウムと原子番号96番キュリウムが現実にそこにある・・・という驚き。そして、それが人類の作為による産物なのだという事実。

不思議な感慨を持たせるニュースでした。

2011年6月14日火曜日

練習態度

サッカーの宇佐美選手がU22代表からもれたというニュースがありました。

『日本サッカー協会関係者によれば、3月のウズベキスタン戦などで招集実績があるものの、練習態度や試合で途中交代を命じられた際の態度などを首脳陣が問題視したため、今回はメンバー外となったという。それでも宇佐美は「仕方ないです。ロンドン五輪も大事だし、しっかり勝ってもらえれば(再招集の)チャンスはある」と淡々と受け止めた。
』(スポニチ)

ことの詳細や事実関係を知らないのでなんともいえないのですが、上の記事だけで判断するとしょうがないことかなと思います。彼に圧倒的パワーがあればそれでも選出されるのでしょうし、そうでなければ、この社会の常識を学ぶ良い機会かもしれません。 

残念なことにこんな簡単なことが分かっていない若者が沢山いることです。『練習態度が悪くて、試合に使うわけないだろ』という当たり前のことが分かっていないのです。

もっとも競技によっては事情が違ってきます。陸上の世界選手権日本代表を選ぶ大会の様子をTVでやっていました。女子100メートルはとても見ごたえのあるものでした。そして、100mを中心にした短距離の選手たちは昔から他のどのスポーツよりも個性派ぞろいです。彼らは自分の力だけを信じてスタートラインに着きます。集団スポーツの選手や同じ陸上でも長距離の選手とはかなり異なった個性です。そこは自分の力以外のものが入り込む余地がとても少ない世界です。練習態度云々と言われることは他の競技よりずっと少ないはずです。その分結果が厳しすぎるほど明確に出る自己責任の世界でもあります。

2011年6月9日木曜日

少し前の話題ですが、元巨人の桑田真澄氏がプロゴルフトーナメントの富士カントリー可児クラブチャレンジカップに主催者推薦で出場しました。
野球では説明不要の活躍をみせた桑田氏のゴルフ転向とあって大きな期待が寄せられましたが、結果はプロの壁に阻まれるほろ苦いデビューとなりました。


同氏は試合後のインタビューにて、プロゴルフの厳しさを語りつつも
「スポーツをやる人はあきらめちゃいけない。」
「2日連続のKOで目標の80にも及ばなかったけど、また挑戦したい。」
とコメントし、その後実弟でプロゴルファーの桑田泉氏の指導を受けていたそうです。


スポーツをする人はあきらめちゃいけない。カッコイイですねぇ。
他の分野だって同様です。また暑い時期が近づいて来ました。
来たる模試の前に、我々も覚えておきましょう。
「受験する人はあきらめちゃいけない。」
「指導する人はあきらめちゃいけない。」

2011年6月7日火曜日

移行措置

中間テストが各中学で少しずつずれている為、今月はずっとテスト対策の補習をしています。しかも、英検や漢検がこの時期に重なり、人によってはかなりハードなスケジュールをこなさなければなりません。

さて、新しい指導要領に向けて、移行措置の分野が理科・数学を中心に中学のテストに戻ってきました。最も大きな変更は理科です。今回の中3理科のテストでは力の合成・動滑車や斜面での仕事・イオンの知識を前提とした電気分解・中和反応・遺伝といった部分がほぼ全部移行措置です。

昨年までの古い教材ではそうした問題が載っておらず、殆んど対応できません。といって20年も前のものはもっともっと難しくて使い物になりません。この間の10数年は『失われた10年』とも言うべきものです。

ゆとり教育に関してはその役割もあったはずで、デメリットばかりでなく、メリットもあったと思うのですがその反省と評価をきく機会がありません。当時の文部官僚は今どう考えているのでしょうか。

イオンという知識がなく、レモンで作った電池で電球がつくことを教える。そんな馬鹿げた理科があったことを忘れないようにしたいと思います。

2011年6月3日金曜日

濃度

濃度が分からないという中学生に濃度を教えました。

やっているうちに濃度ではなく、割合が分かっていないのだということに気づきます。5%の食塩水でも、5%の消費税でも同じ困難が存在しています。小学校の算数でこの辺りの学習が十分でなかったのでしょう。

中学受験する子にとって割合は最も重要かつ難解な部分です。この部分の学習に多くの時間を割きます。その結果、難関中学の生徒の多くは、割合を得意としています。一方、公立に進む子にとってはほんの上澄みをさらっただけで終わってしまいます。消費税が10%に上がるという議論があってもその具体的なイメージが持てません。

もっともこれを小学校教育、あるいはゆとり教育のせいだけにするのは片手落ちです。
 ・基礎の基礎ですが、200円の6%はという質問に200×0.06と直ぐにやれても。
 ・同様に基礎の基礎です。200円は持っているお金の6%です。いくら持っていますか?という問いに 200÷0.06 と即座にやれる大人も案外少ないからです。

公教育の衰退は社会の仕組みや内実を理解できない多くの大人を作り出していくことになります。そして、一部の仕組みを理解できる人たちだけがこの国を動かしていくことになりかねません。

それは決して望ましい未来ではないはずです。私たちは学ばなければならないのです。

2011年6月2日木曜日

日本語の助動詞

先週中学3年生に国語の授業をしていました。
テスト範囲に助動詞があったので、復習で問題を解かせていたのですが、あまりにもみんなできないので、もう一度助動詞について説明をしたのです。

突然ですが、問題を一つ。


例題)以下の文章の助動詞を3つ答えなさい

私にはとてもそんなことは信じられません。



さて、この文章には助動詞が3つ含まれているのですが、分かりますか?

僕は中学時代、正直国語の文法は苦手でした。
上の例題ももしかしたら解けなかったかもしれません。

ですが、中学生にいかに分かりやすく教えるかを考えているうちに自分でも理解できました。

そもそも、助動詞というのは言葉のとおり動詞を助けるものなので、動詞(用言)に含まれます。
例文で言うと、「信じられません。」が動詞(用言)ですよね。
この中に3つ助動詞があるわけです。

先に正解を言うと、「られ」、「ませ」、「ん」、の3つです。

この3つの言葉は元々の動詞である、「信じる」を助けています。
まとめてしまうと分かりづらいので、一つ一つ説明してみます。

信じる + られ(可能)  =  信じられる
信じる + ます(丁寧)  =  信じます
信じる + ない(否定・打消)  =  信じない

こう考えると分かりやすいですよね。
それぞれの助動詞が意味を付加していることが分かります。

信じられる  +  ます(丁寧)    =  信じられます
信じます   + ない(否定・打消)  =  信じません
信じない   +   られ(可能)    =  信じられない

信じられます + ない(否定・打消)  =  信じられません
信じません   +    られ(可能)  =  信じられません
信じられない  +   ます(丁寧)   =  信じられません


こういったことを黒板に書いて、初めて自分の頭も整理されました。

日本語でも文法を改めて考えると、それほど深く考えずに使っていますよね。
これが英語になったらどうなるか、と。

文法って本来は言葉を覚えるための先人の知恵だったと思うのです。
明治維新の後に英語を勉強しなければならない状況になって、最初は当然、文法なんていうまとまったものはなく、ひたすら英語の文章を読んだと思うのです。

そのなかで、「ん、このcanってのは動詞の前にくっついて、”可能”の意味を与えているなぁ」とか、「どうも”to”に動詞がくっつくと動詞じゃない役割を果たすようになっているなぁ」とか、傾向に気づいた人がいるはずなのです。

で、それを英語をマスターするための近道として、文法としてまとめた人がいる、と。

日本語だって、文法を改めて見てみると、「そんなに意識して使っていないよ~。なんとなくなんだけど。」と思うことがあると思うのです。
言われてみて、そういえばそうだなぁと思うとか。

そういう意味でいくと、本来は英語を読んだり話したりするための近道としての文法だったはずが、文法を覚えることが目的となってしまったことに問題があるのかもしれないですねぇ。
だって日本語にしたって、文法から覚えさせられたらなかなか話せないですよ、それは。


なんてことを、国語の助動詞を教えたあとに思ったわけでした。

なんか脱線したままですけど、この辺で。。(笑)

2011年6月1日水曜日

時事問題

中間テストのための時事問題を考えています。

前回のテストは新燃岳噴火の直後でした。したがって、その後の時事問題を集めることになります。北アフリカ諸国で始まった反体制運動。オサマビンラディン殺害。府川事件無罪判決。京都大学入試でカンニング。ユッケによる食中毒。ロイヤルウェディング。アメリカの竜巻。その他、いろいろありました。しかし、その全てが、今回の東北大震災と福島第一原発の前に小さな出来事のように感じてしまいます。

今回のことで私の中の価値観の一部が変化したのかもしれません。震災の被害を直接被った人たちは言うに及ばず、そうでない多くの日本人の中でもある種の傷跡が残ったように思えます。