2010年3月20日土曜日

厳しさと曖昧さ

『すみません。近くの地下鉄の駅を教えてください』と尋ねます。
『地下鉄? えーっと。直ぐそこの信号を右に行って。えーっと。2つ目、まてよ、3つ目かな。あっ2つ目だ。2つ目の交差点を左折して、しばらく行くと左手にコンビニがあって。その角を左に行って直ぐ右側ですよ』と丁寧に教えてもらいます。
『なるほど、分かりました。ありがとうございます』とお礼を言って、直ぐそこの信号を右に曲がります。”確か2つ目って言ってたなあ。うっ? 3つ目か?いや、2つ目でいいのか。で、そこをどっちだっけ?”もう怪しくなっています。通りかかる人を見つけて、
『すみません。近くの地下鉄の駅を教えてください』と再度尋ねることになります。
『分かること』と『できること』はこんな風に違っています。駅までの道順をメモするか、頭の中で再現できるまで繰り返すべきだったのです。

勉強もそうで、分かった気になったとして、それができるようになるまでにある種の距離があります。それをどうするかそれが問題です。必ず目的地につけるように厳しく学んでおかなければなりません。最後の最後の詰めのところまでちゃんとやることそれが厳しい勉強です。

一方、勉強にはある意味で曖昧さが必要です。丁寧に一生懸命勉強しているのに結果が伴わない人にそれがいえる場合があります。ノートもしっかり取れている。教科書もびっしりマーカーの線が入っている。本人も生真面目に時間をかけて勉強しているのですが、よくみていると、事の軽重というか濃淡というか、重要度の差が認識されていないようです。こうした人は、ある程度の成績を上げますが、勉強の割りには成績が伴いません。

逆に重要な部分を把握する事の得意な人がいます。問題の核心を掴む能力、または嗅覚に優れている人です。大して勉強していないようなのにテストでよい点を取るのはこうしたタイプです。重要なものを見分け、余り重要でないものを捨てる。そうした判断に優れているのです。瑣末なものを学ぶことに拘りすぎない。そんな曖昧さも必要な気がします。

厳しさと曖昧さ(この言葉は妥当ではないかも?)。
私の教えた生徒で難関大学に受かった人はその両方持った人が多いように思います。

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