2010年11月29日月曜日

ご褒美

中間テスト直前です。中2の補習が長くなり日付が変わるまでやっていました。

そのまま全員が塾で仮眠を取って、翌朝授業を始めるというかなり無理な勉強をしたこともあります。そうした勉強が効果的だと思っているわけではありません。ただ、少し無理をして自分の限界を知って欲しいと思っています。限界は思っているよりずっと遠くにあって、もうだめだと思っているところより更にもっと遠くにあることを体験して欲しいのです。

そして、他人に強要されることなく、自分自身でそのような場所に身を置くことができるようになって欲しいのです。

結果はその後についてきます。初学者が勉強の効率を初めから考えてはいけません。それは、懸命の学習の中で、必要に迫られることによって得るべきです。

勉強の方法や、勉強の面白さや、特別な問題集や、そういう部分を考えている暇があったら、一題でも問題を解きましょう。集中して学ぶ中で、勉強の方法や、面白さは少しずつ分かってきます。だらだらとやっている人間にそれを理解するすべはありません。

勉強の面白さや、効果的な方法は真摯に学んできた人に与えられるささやかなご褒美なのです。

2010年11月23日火曜日

満点

中3のH君に中間テストの結果を聞いていたときです、数学が・・点、英語が・・点と見せてくれたのですが理科だけ「うんっ」といってテストを差し出しました。「えっ?」と思いながら2つ折にされたテスト用紙をひろげると中にA4の解答用紙がはさんでありました。満点でした!

感情を表に出すタイプではないH君の精一杯の感情表現だったように感じました。実力はあるのですが、それを上手く表現できない。そんなタイプでした。今度はその力をしっかりと表現できたのです。

しみじみと「よかった」と思いました。

そんなうれしい気分を抱えて遅く家に帰ると、いつものようにメールチェックをしました。

その中に高3のSさんのメールがありました。「・・・?」と思って明けてみると推薦合格の報でした。
「やったーっ!」

これだからこの仕事はやめられない。

こんな夜、いつもより酒量が増えるのは当然のことです。

2010年11月22日月曜日

会話虚弱国を変革する①

今に始まった事ではありませんが、英語等の言語を習得する際に「フレーズ」で覚えるという方法があります。具体的にみてみましょう。


問:「今日は何曜日ですか?」を英語にしてください。





答:What day is it today?
できましたか?では次です。


問:「今日は何を食べたいですか?」を英語にしてください。





答:What do you want to eat today?
できましたか?
現在の中学教科書に慣れ親しんだ人は初めの問はパッと答えが出てきて、次の問はさっきより少しだけ時間を使って答えが出てきたのではないでしょうか。また後者がパッと出てこなくても、前者と要領が同じですからそれをヒントに辿れたのではないでしょうか。
この様な型に対応する瞬発力がフレーズにはあります。


英語を学ぶにあたって、文法を学ぶこととフレーズを学ぶ事は同時に行われるべきではないかと考えています。この二つは以下の役割と相互関係をもつからです。
フレーズ:文法の習得を容易にする。思い出す為のラベル漬けの役割を果たす。
文法:フレーズに理論的裏付けを与える。正しい英語を扱える。


現在の英語教育では文法は押えていますが、フレーズはまだまだです。
これはひとえに「発話」不足によるものと考えています。フレーズは音に乗らなければ、自分から口に出さなければ覚えられないのです。特に高校では音に出して読む事はほとんど出来ていないと言ってよいでしょう。



次回に続きます。

2010年11月21日日曜日

悠々会やります。

12月16日(木) 本年最後の悠々会やります。
時間のある人は寄ってください。
時間の詳細は後日。

2010年11月18日木曜日

模擬テスト

 中学2年で模擬テストをしました。この時期の模試はあまり良い結果を期待できません。一番の理由は中1のときのことをすっかり忘れてしまっているからです。

 数学や英語のような教科は知識を積み上げていく教科なので、過去の学力が現在の学力の前提となっています。中1のことをしっかりしない状態で中2以降の学力の向上を期待することはできません。従って、今、数英が得意な人は概ね以前も得意だったと言えます。

 一方、理科・社会のような教科は中1は中1、中2は中2ですから、中1で理社が苦手でも、中2では得意だということは十分にありえることです。逆に、模擬テストのように広範囲のテストでは、今、理社が得意でも良い点がとれないということが当然のように起こってきます。

 こうした教科の特性から、通常の勉強の方針が定まってきます。英数は基礎の基礎(中1まで、あるいは小学まで)まで戻って復習をしなければなりません。小学校レベルの掛け算・割算(小数点のあるもの、分数の混ざったもの)に問題がある場合は珍しくありません。公立中学校の半数以上(データがあるわけではありませんが)に問題があるのではないかと思います。英語では、be動詞と一般動詞の区別と応用、人称変化、三単元は中1の最重要項目で、それができていない場合は中2,3でも急いで復習しなければなりません。

 理社に関しては、とりあえず今やっていることを、しっかりやるようにします。夏休み等で時間に余裕があれば過去の復習をします。このときも、忘れないように概略をザーッとやる方法が有効です。

 さて、問題は国語です。中2だと、生まれてから13~4年の言語体験があります。それを無視するわけにはいきません。豊かな言語体験をしてきたものとそうでないものとの差は圧倒的です。直近のテストのための勉強だけでそれをカバーするのは無理があります。
 電車に乗っていたら、Y学院という予備校の広告が張ってあり余した。「偏差値40から東大合格」というものでした。その合格者のプロフィールには小さな字で有名私立一貫校の名前が書いてありました。彼らは、中学入学時までに、公立中学入学者に比し、桁違いの量とレベルの言語トレーニングや計算トレーニングそして、公立中学校卒業に匹敵するレベルの理社を身に着けています。それがあっての「偏差値40からの・・・」なのです。
 そうした13年に及ぶ言語トレーニングの不足をどう補うかは難しい問題です。真っ先にできることは語彙(漢字を中心とした)を増やすこと。そして、論理的な文章を正確に把握できるようにすること(入試問題を設問に答えることなく毎日一定量読むのがお勧めです)でしょう。即効性がありませんので、当然のように日常的に継続して行なわなければなりません。
 

2010年11月17日水曜日

人工眼

2010年11月3日、ドイツの医師チームが網膜下に埋め込む最新式の「人工眼」によって、進行性疾患で中途失明した患者の視力を劇的に回復することに成功したと発表しました。

勇気を持って人工眼の手術を行った被験者は、その全員が部屋の中の物や形の認識と、諧調(明暗)の識別を行えたといいます。従来にもこの様な義眼は研究が進められてきましたが、今回の発表はカメラ付き眼鏡等の外部センサを使わずに、網膜に直接チップを埋め込んだ事が進歩であるそうです。


視力が悪くなってゆく恐怖というもの感じたことがある人は多いと思います。しかし進行性疾患による失明はこの比ではありません。「何故自分だけ見えなくなってしまうのだろう」という悲壮感から不幸な事故に至ってしまったという話も聞いたことがあります。
今回のニュースはこの様な事故に待ったをかける革新的発明で、一度奪われた五感が再び取り戻せる事を証明しました。しかも回復後にはトレーニング等を全く必要としなかったそうです。
 
この他にも考えるだけで動作する義手等が既に開発されています。
科学技術はビジネス向けの社会貢献を果たすことも大切な役割であると思いますが、今回の様な五感を失った人を救う貢献こそが、果たされるべきもっとも大きな使命であると思いました。

2010年11月16日火曜日

インターフェース

不便・不要・不可避などなど、世の中は未だ改善点に満ちています。
この様な「不」のつくものにビジネスの余地があると言われています。


優秀な例としてユーザーインターフェースがあります。
インターフェースとは、二つの物の間に入って仲介を行うモノの事です。パソコンのマウスやキーボードの場合は人間とパソコン(本体)を結ぶ役割を果たすことから「ユーザーインターフェース」と呼ばれています。


Gitte Lindgaard博士によれば、人間がコンピュータに入力した際に、0.1秒~1秒以内に応答がなければ人は待たされている(「あぁコンピュータ頑張ってるな。」「早くしてよ。」といった思考が廻る)感覚を持ってしまうと言います。逆に0.1秒以内に応答があった場合、人間はコンピュータを直接操作している感覚を持つと言います。
ユーザーインターフェースはこれに見事に応えていて、マウスやキーボードは押せば直ぐに反応します。これに対してインターネットやソフトウェアはこの点においてまだまだ物足りず、「不」快の元となっています。よって回線速度向上やソフトウェアの軽量化がビジネスの焦点となっているのです。




「看板が無いから場所がよくわからなかった」
悠々館ではたまに起こるトラブルで、明らかなインターフェース「不」足ですね。
重要検討事項にて講師一同知恵を絞っておりますので、もうしばらくお待ちください。




※マウスやキーボードは今回取り上げた一面では優秀ですが、場所をとる点や直観性という点で時代遅れな所があるため、「不」満の募りつつある分野でもあります。普及がなされすぎている為に現在ではまだニーズがありますが、今後淘汰されていくかもしれません。

2010年11月15日月曜日

努力の成果

O君が塾に来るなり『英検受かった』と言って、ちょっと自慢げに郵送されてきた書類を見せてくれました。英検合格者の数は全国では膨大ですから、特別たいしたことではないかもしれません。

しかし、まだそれ程の成功体験のない子にとって、この小さな体験は重要なことです。英検の前には塾でN先生と対策の勉強をしていました。その結果、勝ち取った成果です。努力の意味、成功の喜び、それを少し分かったのではないかと思います。

別の子ですが、漢検6級から準2級までの合格証明書を全て額に入れ部屋に飾ってあると言っていました。『準2級だけ貼っとけば良いんじゃないの?』と尋ねると、『それぞれが同じように大事』なのだそうです。最終的な結果ではなく、その途中でした、努力と喜びがどの級にもあるからなのでしょう。その喜びが次の努力を支えていくのです。

今まで教えてきた中で、努力が成果を出さなかったケースはほとんどありません。勉強したのに結果が得られなかった場合の多くは本人がやった気になっているだけです。そういう意味では勉強は努力がかなり正当に評価される世界です。

残念なことに、社会に出れば、必ずしもそうではないことは沢山あります。

2010年11月14日日曜日

大学の補習

少し前に高校・大学間の連携の話を書きました。内容は大学生が高校に行って、補習を受けるというものでした。かなりの大学生が大学レベルの勉強をすることができる水準にないからです。

その数日後TVでもっと過激な補習をやる大学の様子を放送していました。それはこんなものです。
大学で補習と称して公文式をやっていました。ある大学生がやっていたのは公文のAコースやBコース(小学1,2年程度)で、1桁の足し算・引き算、筆算による2桁の足し算などでした。

その補習を受けていた学生の1人のコメントはこんな感じでした。
『公文どうですか?』
『公文めっちゃいいっス!!
ってか、やってて最初わかんなかったけど
だんだんできるようになって
”あっっ!! 自分できる!!” みたぃな?! 』

無言絶句!(五言絶句ではありません)

清掃活動

高校生の大集団が歩道を塞ぐようにだらだらと歩いていました。どうやらゴミ拾いに出かけるようです。ごみをつまむトングのようなもの(なんと言うのでしたっけ)でちゃんばらをしているものすらいます。すこしはなれて、最後尾を先生とおぼしき人たちが”仕方ないな”という風でついていきます。

こんな光景を最近あちらこちらの高校で見ました。ひょっとして、全県立高校でやっているのかもしれません。実際に拾っているところを見たことはないのですが、ちょっと首を傾げてしまいます。行動に気持ちが入っていないとき、どのような行為もだらしなく見えてしまいます。

中学校でやる ”強制的な” ボランティア活動(=自発的な活動)みたいなものなのでしょうか?
まさに、言辞矛盾そのものです。

きっかけとしては良いことだと思いますが・・

2010年11月11日木曜日

漬かる様に学ぶ

世の中には残念なことに器用・不器用という性質が存在します。
例えば僕が友達とダーツに行った時。始めは横一線で下手だったはずなのに、最終的には実力に開きが出て、友人Aが勝ち続けるようになりました。そしてそれはダーツに限らずボーリングやテレビゲーム等でも同じで、僕らの中で友人Aは越えられない壁の様な存在でした。


ここで僕のような凡人が友人Aに勝つ為の手段はなんでしょうか。
結論から言いますと、習熟したい分野に対して没頭する事が一番の近道ではないかと考えました。


私の英語教師であった先生は、英語の習得について次のように述べています。



「英語講師になって8年目の春、スランプがやってきた。会議などで英語を話すとき、つっかえてしまうのだ。子供の運動会でコケてしまう、昔はスポーツマンだったメタボの気味のお父さんの様に。まずい・・・。」


「海外から帰国して約10年。すっかり貯金を使い果たしてしまったのでしょう。日常会話ならまだしも、英語を長い時間聴く事が、読むことが苦痛に感じるようになっていた。体力不足だ。野球の練習で言えばランニング。ここをさぼると足腰がおぼつかなくなる。足腰がおぼつかない選手にシャープなスイングはできないのだ。」


「やさしいものを多量に読み、書き、聴いて、話すこと。これが英語の体力増強の方法。どれくらいか? 著名な先生によれば200時間以上だそう。それ以下であれば効果は期待しないほうが良いそうだ。ジョギングをするように、自分のペースで(英語のレベルで言えば辞書なしで8割内容が取れる教材で)距離を走る(読み、書き、聴いて、話す)ことが大事。
一方、体力が付いたら素振り、トスバッティング、シートノックなどを通して正しいフォームを身に付ける。英語で言うと音読、シャドーイング、ディクテーションなどだろうか。」


(中略)


「ちなみに私はその後スカパーと契約、家のテレビは全て英語のプログラム。 出歩く時はmp3プレーヤーにいれた英語の音声を、電車の中ではペーパーバック。一日三時間程で三ヶ月を越えるころに英語が外国語ではなくなる感覚がよみがえり再び、夢を英語で見るようになりました。」



英語に限らず、このアイディアは重要です。
物事の習得は通常、始めの部分は伸びが良いのですが、途中から途端に成長が見られなくなってしまいます。この壁を突破できるかどうかが挫折してしまうかどうかの鍵です。なぜならその壁を越えた先には、学習を苦に感じ難い新たなステージが待っており、学習が再び楽しくなるからです。


学習分野の内容を夢で見ることはわかり易い目標であるとして、僕も設定しています。
しかしやらねばならない事も山積しているので、タスクに邪魔されて学習が進まない事を避ける為に電車の中や部屋での生活をもう一度見直さなければならないなと思います。

2010年11月10日水曜日

備えあれば憂いなし

11月も3分の1を過ぎました。身軽でいて服装を楽しめる季節も終わりが近づいてきてしまうことは少し寂しい半面、冬服が足りないので今年は何を買おうかと考えると楽しい時期です。


しかし受験生、とりわけ大学受験生にとってはいよいよセンター試験の足音が近づいており、心穏やかに過ごせる季節ではないのでしょう。僕は個人的に現在高校3年生の子の家庭教師を持っているのですが、その子と話をしている時に、“あと2カ月”ではなく“再来月”というフレーズが出てきた時には「リアルです…」と言ってうなだれてしまいました。


センター試験は毎年1月の半ば頃に実施されます。
国立大学を志望するならば避けては通れない試験で、通常5教科7科目をこなします。センター試験は翌日には新聞を通して回答が掲示されるため、受験生によっては(良かれ悪かれ)その3日間で決着がついてしまう事もあります。


個人的な見解ですが、旧帝国大学等の所謂A~Sランク大学を第一志望とする人を除けば、この残り2カ月からセンター試験の習熟をやり始めるべきだと思っています。
なぜならセンター試験の特徴として、教科が多いこと・試験内容がやや独特であることが挙げられます。よって受験生は総合的な学習と時間内に実力を出し切る要領が必要です。
なので過去問を用いたテスト形式で練習を重ね、解説を見ながら問いに対して研究することで知識を深めるといった学習法を繰り返し行い、自分の回答リズムを作り上げる事をします。


僕の場合の回答リズムはこうでした
1.大まかに形を組み上げる
2.出来なかった部分を考える
3.出来てる部分が本当に合っている事を確認する
4.もう一回見直す
少なくとも3番まで達していなければ、そのテストは失敗作です。もちろん国語等は時間的に厳しいのでこの限りではないのですが、基本はこの手順を踏めるように本番も心がけて解きました。


一発勝負の世界において何よりも強い事は安定感であると確信しています。
とりわけセンター試験は何をやるのか判っているのですから、準備=点数安定率の向上なのです。
ラストスパートを、身近にいる人の誰よりも頑張ってください。

2010年11月9日火曜日

スパイラル・モデル

先日、学生のビジネスプランコンテストを見てきました。
経営学部が主催だったのですが、現代社会が取り入れられていない部分に目を付け、収支や数年間のプランをかなり具体的に述べていて素晴らしかったと思います。こういったプレゼンテーションを見ていると、大学生もまだまだ捨てたものではないと思うものです。


例えばソフトウェアならば、組み立て式なので設計さえ完璧ならば(それが困難なのですが)各自が然るべきパーツを組み上げて、それをつなげれば思った通りの作品が完成します。
しかしビジネスプランコンテストでは、何の作業をするにしても全員が情報を共有していなければ段々とプランにズレが生じてしまい、作品のクオリティを損なう原因となります。


チームには多角的視点と長所の相乗効果の為にも、様々な人種の人間が必要です。
しかし思考が異なる為に、上記のような同期のズレを生む危険性もまたあります。よってチームには綿密な計画を練る事や、目に見える成果物をこまめに提出する事で意見のズレを修正しながら作業を進めていく必要があります。


今回見たグループの一つに「駅のホームを花と緑で快適通勤に!」というテーマがありました。僕がまっさきに思ったことは「満員電車の中に蜂が入る危険性とその対策」でした。結局この事やこれ以外の非人間的トラブルに対する技術的対策はありませんでした。恐らくこのチームには工学的発想の人物が不足しおり、そこだけがちょっと残念でした。

2010年11月7日日曜日

how to ものの本について

20年ほど前、ある著名な文化人が『アメリカの出版物の大半はいわゆる how to もので・・・』とそれを揶揄するような文を書いているのを読んだことがあります。"how to もの”とは”~の仕方”、”~の方法”といった種類の出版物です。『私はこのようにして大富豪になった』『私はこのような勉強法で、偏差値40から東大に入った』『正しい、乳母車の選び方』 『初めての株』 そんな本のことです。

その影響か、私自身は how to もの をあまり読まないようにしていました。ところがそれからだいぶ経って日本の出版状況は大きく変化してきました。本屋の書架は漫画に席巻され、how to ものはその割合をアメリカ並みに増やしてきました。今や how to ものはベストセラーの中に沢山顔を出しています。

その理由はいくつか考えられますが、一つは、ある世代の持っている知識が次の世代に連続的に伝わっていかなくなったこと。もう一つは技術に対する信仰が広まったことではないかと思っています。

前者に関しては言を要さないかと思いますのでここでは割愛するとして、後者のことを少し考えて見ます。

西洋の科学技術は方法論の歴史です。科学においてある事柄が認められるということは、同じ条件で別の人が同じ実験をすると同じ結果を得るということです。そうした追試によって、その理論・実験の価値が決まってきます。それはまさに方法論そのもので、『このようなやり方で・・・すれば、あなたも同じように・・・できる』という主張です。『このようにすれば、あなたも大富豪になれる』『このようにすれば偏差値40のあなたも東大に入れる』『このようにすれば、あなたも絶対に乳母車の選択に失敗しない』とうわけです。

一方、我が国の技術の歴史は必ずしも方法論の歴史ではありません。ある技術者がある技術を体得したとします。その技は弟子の中の最も優れたものがある種の偶然と共に師匠から授かります。『秘伝を授かるわけです。』 誰もがその技術を得られるわけではなく、苦労して技術を磨く中で幸運に恵まれた人がそれを得ることになります。西洋の方法論が連続的に伝わるものであるとすると、日本のものは点から点へと不連続に伝承されます。『このようにしたとしても、あなたは・・・ができるわけではありません』という考えです。

戦後民主主義には様々な功罪(功が圧倒的に多いと思いますが)があります。そのなかで、日本的な技術の伝承は特殊な分野(古典芸能や工芸など)では何とか残っていますが、ほとんどの技術は方法論という一大勢力に支配されたといえるでしょう。方法論さえあれば『あなたも大富豪になれる』『君も東大に入れる』というわけです。当然 how to ものが売れるはずです。

さて、私は尺八をやっています。練習熱心とはいえないのでなかなか『免許皆伝』とはいきません。
『上手な尺八の吹き方』という本があれば買いたいのですが、どこかに売ってませんか?

2010年11月4日木曜日

ゴッホの墓

センター試験の国語は読解という技術を悪い方向に変えてしまったのではないか?と思っています。詳細はここでは述べませんが、文章を読む楽しみを損ねる方向に向いています。いまや、国語の点数が取れることと文章が読めることとは同じことではありません。

さて、この世には”読みの達人”とでも呼べき人たちがいます。代表的な人物は評論家の故・小林秀雄です。日本人の持つモーツアルトのイメージは小林秀雄のモーツアルトであり、日本人のもつゴッホのイメージは小林秀雄のゴッホです。

モーツアルトを”疾走する悲しみ”と呼んだ小林秀雄はゴッホ論の中で『自ら狂人たらんと欲する多くの常人の中、唯一、自ら常人たらんと欲する狂人・・・』というような文章を書いていたような気がします。それが、ぼくのゴッホの根源的なイメージです。

ゴッホは若い頃ワーキングビショップ(労働司祭)のようなことをしています。働きながら神に仕えていたのです。その頃の作品『ジャガイモを食らう農夫』のような作品は晩年の色彩溢れたものとは一線を画す秀作です。そして、パリに出、やがて、ゴーギャンとのアルルの生活。その理想に破れ最後は自ら命を絶ちます。生前、ほとんど絵は売れず弟のテオの援助で生活をしていました。

随分前、とても若かった頃、ぼくはパリで暮らしていました。ある日、ゴッホの墓を見に行こうとパリ郊外に向かう電車に飛び乗りました。

オーヴェール・シュール・オワーズに彼の墓があるはずでした。オーヴェールの駅はとても小さく、ほとんど人通りもありませんでした。近くのカフェに入ってコーヒーを飲みながら、情報を仕入れます。ゴッホの墓までの行き方、ゴッホが自殺した部屋のある建物の場所などなど。

カフェを出て少し駅のほうに戻りそのまま進むと、左側に上り坂があったように記憶しています。その小径をしばらく歩いていくと二股に道が分かれています。そしてその正面にオーベールの教会が建っていました。ゴッホの代表作『オーヴェールの教会』の教会です。彼が思っているよりずっと写実的に描いているのに驚きました。そして、その背後にはたわわに実った穂を風に揺らす黄金色の麦畑が彼の絵そのままに広がっています。ご丁寧に、その空にはカラスのような鳥さえ飛んでいます。まさに『カラスの飛ぶ麦畑』なのです。

そこであった村人にゴッホの墓の行き方を尋ねると、長々とゴッホの説明をし始めました。そして、最後に『ほら、そこだ』といって、直ぐ右手のレンガ塀に囲まれた墓を教えてくれました。

墓標の文字を頼りにゴッホの墓を探したのですが、かなりの時間がかかりました。それは、他の墓と比べるとずっと質素な石のプレートが2枚並べてあるだけのものでした。一つには『ビンセント ヴァン ゴッホ』 そして、もう一つには 『テオドール ヴァン ゴッホ』と書いてありました。

(注)とても昔のことで記憶間違いが沢山あるようにも思います。悪しからず。

2010年11月2日火曜日

制度疲労

数日前の新聞にセンター試験を2種類にするというニュースが出ていました。従来のセンター試験を国公立と一部私大用にし、それとは別に私大用のセンターを実施するというものでした。

大学全入時代を迎えて、私大の40%は定員割れを起こしています。同時に学生の学力も低下し、現行のセンター試験では難しすぎて参加できないということのようです。それならばもう一つ易しいセンターをやって・・・。ということのようです。屋上屋とはこういう時に使うのでしょうか。それならばセンターという看板を下ろしたほうが良いと思います。

今年前半にはこんなニュースもありました。高校、大学提携のニュースでした。今までも高校生が大学の授業を受ける等いろいろされていましたが、今回のものは画期的でした。というのは、大学生が分からない勉強を高校に行って教えてもらう(補習してもらう)というものだからです。

最早、下位大学では大学という名に値する授業を維持するだけの質の学生を集めることができないのが現状です。特に理系は深刻で実験のレポートが書けない人が相当多く、そのレポートを書くアルバイトが存在しています。当塾にも面倒見てもらえないかという問い合わせが時々あります。文系でも経済や商学部の学生に初歩の線形代数を教えることがよくあります。

教育システムが制度疲労しているように感じます。

2010年11月1日月曜日

自学

今日から11月になりました。今年も残す所あと二カ月ですね。
中学生は今月末からテストがあり、また2ヶ月後の2011年1月には英検を控えておりますので僕たち講師陣にとっては最も大切な季節の一つであると感じています。


僕(長尾)のテスト対策テーマとして、今回は「自学」を挙げています。
何時までに何をすればよいのか、というような道筋や方法論はこちらで準備を徹底するとして、それを能動的に処理することで学習のリズムを身につけさせたいと考えています。


ここで大切なことは、教材が「自分の頭を使って行うもの」であることです。
とりわけ社会や理科等の記憶分野については教科書やノートを見る様な受動的学習になりがちなので、それに留まらないまとめや問題を自分で創作することが大切です。
作成にコスト(時間)がかかる事が欠点ですが、一度作ってしまえば日常やテスト直前などあらゆる場面で役に立つメリットが大きいです。


逆に英検等の対策は各自では中々捗りにくいでしょうから、こちらで手厚くカバーします。その際に単語カードを作成しますので、自宅学習はそちらの記憶に終始します。
また検定は集中して取り組む事が効果的ですので、12月や1月に徹底した対策を取ることが大切です。その為の特別講座も現在検討中です。


いずれにせよ、子供たちにとってはあっちいったこっちいったにならないシンプルな学習を提案していきます。風邪などのトラブルにも気をつけつつ、頑張っていきましょう!