2010年7月30日金曜日

小学生との授業 その1

小学生を教えているとその能力の高さに驚くことが度々あります。
大人が子供に勉強を教えることができるのは能力に差があるからではなく、圧倒的な経験の差によるのだと思えます。

足し算、引き算のような単純な計算に関してはなおさらです。それはほぼ反射とも言うべき行為ですから、経験が入る余地が余りありません。従って大人と遜色ない、あるいはそれ以上の実力を持つ小学生が沢山いるわけです。実際、難関中学を受験する小学生の計算力はたいていの大人の計算力をはるかに凌いでいます。

そんな小学生との授業のことです。
「先生はどこの大学出てるの?」
と尋ねられました。ちょっとからかうつもりで、
「俺は、優秀だから幼稚園しか行っていない。ある日、幼稚園の砂場で数学の難しい問題を解いていたら、近くの小学校の校長先生が来て、『君は優秀だから、小学校に来ても何も教えることが無い』と言ったんだ。だから、幼稚園に行っただけだよ。』と。
「うそだー」と生徒たち、「それどこの幼稚園?」
「えっ?そっそれは・・『森の幼稚園』だ」ととっさに答え、「友達にプーさんやピグレットがいたなあ」と熊のプーさんを思い出して、答えました。この段階でぼくの嘘は見破られるはずでした。
後日、また、この話が繰り返されました。一通り、ぼくの話を聞くと生徒は一斉に
「うそだー」と叫びました。とそのとき、Y君が
「そんなこと無いよ。『森の幼稚園』って本当にあるんだよ。お母さんがあるって言ってた」と言ったのです。
えっ。あの話を信じたの?そして、お母さんがそれがあるって言ってくれたの?
あーっ。ぼくは胸が熱くなりました。子供っていいなあ。彼らと一緒に学べる喜びを感じた一瞬でした。

こんなことにころっと騙される小学生と驚くほどのスピードで計算をする小学生とが同一人物の中に存在する。そのアンバランスが彼らの魅力です。そして、そのアンバランスを修正していくのがこれからの学習なのかもしれません。

2010年7月24日土曜日

一生読む受験参考書

高校3年生と古文をしました。古文は専門ではないので、一緒にやってみるといった感じでしたが、意外にもぼくの方が良くできていました。彼らは高3で、しかも文系なのでこの結果は少し自慢しても良いかもしれません。(彼らの方が心配すべきかも知れませんが・・・)

ぼくの古文の知識は高3でピークに達します。たった一冊の本でそのほとんどの知識を得ました。小西甚一「古文研究法」(洛陽社)。著者は著名な国文学者で東京教育大(現・筑波大)教授です。とても奥の深い本で、大学受験だけのために書かれたものではありませんでした。受験が終わると全ての本を捨ててしまい、数十年後の今、手元にあるのはこの本一冊です。読み込んでゆくと、古典の世界の広がり、古文を読む喜び、そして、探究心がくすぐられる本でした。今でも、何かあるとこの本を開きます。

今、古文を学ぶ人に人気なのは「マドンナ古文」や「ゴロゴ・・・」といった本です。分かりやすく、語りかけるように噛み砕いて書いてあり、具体的に点数をとることを目的にしたものです。古文にかかわらず、このタイプの本が増えてきました。

それはそれで良いのですが、受験勉強が更にその先の勉強につながる、そんな本が減ってきました。ちょっと難しい本を苦しんで学び、その中で、受験ではなく、その学問への関心を増してゆく。そうした読者に媚びない本。きっと売れないんでしょうね。

参考書を見ていると現在の日本の学問水準が感じられます。

2010年7月23日金曜日

野球

静岡大学に行っているA君が夏休みの帰省で塾に顔を出してくれました。江南野球部のキャプテンで、静大に入ってからも硬式野球をやっています。日焼けした顔は精悍さを通り越していました。
「おい。お前、怖いぞ!」
将来は高校の先生をしながら野球部の監督というのが彼の夢です。
ぼくも少しばかり野球をしたので、硬球がバットに当たる独特の音を聞くとなんとなく興奮してしまいます。
ここ数日のとんでもない暑さの中で、無心に野球をする。中学生でも大学生でもなく、高校生が。うーん、良いですねえ。

2010年7月21日水曜日

今日も暑い一日でした。

高校の授業をしていたら、八木先生が古文の日程調整で来塾。ちょうど良いので、生徒の物理や数学の質問に答えるのを手伝ってもらいました。突然教室の先生が2人になる。ちょっと変な塾ですが、そこがやっぱり我が塾なのでして。「人使いが荒い・・・」と言いながら、ついつい本気で教えてしまう八木先生なのでした。

2010年7月19日月曜日

本屋で

職業柄、本屋には頻繁に顔を出します。小中高の学習参考書目当てです。
学参売り場はたいてい児童書と隣り合っている書店が多く、どちらも書架が大変乱れていることが多いように思います。児童書は幼い子供たちが本を扱うのでまあ仕方ないかと思いますが、学参売り場は事情が違います。小中学生のものを見ているのはたいてい父親か母親、高校のものは高校生自信です。昨日も高校生か浪人生と思われる人の横で本を探していました。本の扱いがひどいなあとなんとなく感じたのですが、熱心に本を探しているようで、なかなかそこから動きません。ぼくもその棚の本に関心があったので、しばらく、他のところへ行って後でまた見に来ました。
悲惨な状態でした。棚の本は乱れ、彼が見たと思しき本の表紙は折り目がついており、ぼくの探していた本も表紙に折あとがついていました。
図書館の本がひどい状態で、線が引いてあったり、切り取ってあったりしているという話はニュースで見たことがあるのですが、本屋の状況もかなりのものです。
結局買わずに帰ってきました。

2010年7月16日金曜日

数学と言えども社会性がある。

中1の生徒に文字式の扱いを教えています。そのとき、いつも気になるのが、a÷(-2) のようなものです。分数にするわけですが、マイナスの記号をどこにつけるかです。
(-a)÷2 ならほとんどの生徒がマイナスを分子につけます。同様にすると a÷(-2) ではマイナスを分母につけることになります。ところが、多くの中学校でこれを間違いにします。分母にマイナスを書いてはいけないようなのです。符号の計算を先にして、分数の前にマイナスを書かせるように指導しているのかもしれませんが、本当の理由は分かりません。

間違えになるいじょう、生徒にはマイナスは分母に書かないようにと指導することになります。理由を聞かれることもあります。「学校でバツになるかもしれないから」と答える以外に理由はありません。この理由は数学上の理由ではないのです。何か分からない社会的な要請です。僕自身は分母にマイナスがあっても良いという立場なのですが・・・

同じようなことは時々あります。中3で無理数を扱うとき、最後の答えを有理化するかどうかです。
「答えは必ず有理化するんですか?」と尋ねられると「テストのときは必ずしておいて」と答えることにしています。そして、子供たちは有理化することを当然だと考えるようになります。その結果、数Ⅲで複雑な無理関数の増減を調べるようなときも有理化にこだわって失敗していきます。数Ⅲでは有理化は必要性が無い限りしない方が良いのです。最終的な解も少し複雑だと有理化しないで答えることになります。「どういうときは有理化しないで、どういうときは有理化して答えるのですか?」という問いには「それは数学上の問題ではなく、社会的な問題です。君は人の家にいったとき、帽子を被ったまま?それとも帽子を脱ぐ?それと同じだよ」と答えます。

最近も数列の和を求める問題で、「答えは因数分解の形ですか?それとも、展開の形ですか?」という質問がありました。答えは「君が美しいと思う方にしておいて」でした。つまり、どちらでも良いのです。

数学は厳格な学問ですが、本質的でない部分ではもっと自由度があってよいと思っています。

2010年7月11日日曜日

怒りたいときに笑ってみる

以前友人が『バイク止めようかな』と言い出しました。理由を聞くと、車の運転に頭に来ることが多く、怒る機会が増えているからということでした。

確かに、車の運転をすると、歩行者や自転車、そしてバイクのマナーの悪さや判断の悪さにむっとすることが多くあります。逆にバイクに乗っていると、車のマナーや判断の悪さにむっとすることが多くあります。友人同様に僕もその事は感じていました。そして、そのとき怒っているとどんどん自分が嫌な人間になって行きそうで何とかしようと考えました。

それは     怒りの感情を感じたら、笑って見せる。     ことです。

上手くできるかどうかわかりませんが、今、実行しています。

先日、塾に向かう途中、コンビニから出てきた車に危うく轢かれそうになりました。こちらは自転車に乗っており、相手の車の運転手が反対方向の車に気を取られ、こちら側を良く見ていないのは分かっていました。幸い、車のバンパーが僕の右足に触れたところで停まったので事なきを得ましたが、足の骨を折るくらいは覚悟しました。

運転者を見ると、40歳くらいの女性で車の中で両手を合わせ、こちらを拝むようにして謝っていました。ぼくは緊張した顔を力ずくで無理やり笑顔にして、何事も無かったようにその場を去りました。心臓はバクバクしていましたが。

だいぶ修行ができてきたというところでしょうか?

そういえば、運転していた女性はひたすら謝っていたのですが、顔が笑顔でした。何か失敗したときに、照れ隠しでする笑顔のようでした。

これで良かったのかな?と思っています。

2010年7月7日水曜日

体で覚える

中学生と形容詞や形容動詞の活用を覚えるとき皆で声を出して、リズミカルに唱和します。

かろかつ く~う い~い~けれ   だろだつ で~に~ だ~な~なら

A君がこれを だろだつデニーズだ~な~なら と改作しました。ごろが良いので僕も使っています。こうして覚えたものは長く記憶に残ります。

車の運転をしていて、赤信号で止まったとき、突然、頭の中に 
ず~ざら ず~ざり ず~ぬ~ざる・・・・ 
という高校時代に皆で唱和した助動詞の活用が流れたことがあります。高1の時、古典の授業の初めに助動詞の活用をクラス中で叫ぶことが日課になっていました。その頃、反抗期真っ盛りでしたから、ばかばかしくてやってられないとばかりに、あまり熱心ではありませんでした。しかし、他の事はほとんど忘れてしまった今も活用だけは記憶に残っています。

同様なやり方を色々なところで利用しています。三角関数で サイン・コサイン・タンジェントと唱えながら、体を使ってその正負を調べる方法があります。とても便利なので、必ず生徒に教えます。彼ら(彼女ら)が何十年かたって、三角関数のほとんど全てを忘れたとしても、踏み切りで通過する電車を眺めているとき、台所でキャベツを刻んでいるとき、突然『サイン・コサイン・タンジェント』と叫ぶことがあるはずです。

2010年7月3日土曜日

公立高校と私立中高一貫校の差 ~物理編~

公立高校と私立高校の違いについて、僕からも一点書いておこうと思います。

僕は高校生に物理を教えているのですが、物理でも公立高校と私立中高一貫校では差が出ます。
大学受験のことを考えると、高校3年間しっかりと物理を教えたいのですが、物理の問題を解くためには、二次方程式と三角関数が解けないと話になりません。
私立中高一貫校では、中学3年の時に高校1年の数学をやっているので、高校1年の時から物理を教えることができます。
僕が受験生の頃を振り返ると、高校2年の時は学校の授業のみで物理を勉強したものの、摩擦あたりから全く分からなくなり、ほとんど授業内容が頭に入りませんでした。
結局3年の時にまたゼロから始めることになり、そのため、物理の成績がずっと伸びず、何とか自分でもそこそこ解けるようになってきたかなと実感できたのは、受験直前の1月頃でした。

その後、物理を教える立場になり、これは僕だけの問題ではなく、公立高校生のほとんどが抱える問題なんだと気づきました。

何とか悠々館の塾生には物理を早めに勉強させられるように、高校1年の数学をなるべく早い段階で教える、物理の授業の最初に物理に必要な数学を少し教える、など、何かしらの対応を取りたいと思っています。

物理は解き方とかけた時間が成果に出やすい科目だと思います。
良い解き方を覚え、早くから始めれば、割りときちんと成果が出ます。

何とか悠々館の塾生にとって、物理が弱点ではなく、武器になるようにさせてあげたいと思っています。

2010年7月2日金曜日

公立高校と私立中高一貫校の差

ある日、化学のことで他の先生の意見を聴こうと思い、「化学分かる?」と聞いたところ、

「あっ、化学はちょっと・・」。
もう1人の先生も同じでした。
彼らは2人とも平塚江南から早稲田理工というルートなのでこれは意外な反応でした。

そのとき、ふと考えたのはこんなことです。

現在、公立トップ校の場合、高1で化学Ⅰの理論の部分を学びます。残りの無機と有機そして、化学Ⅱは高3になってからやります。高2になると物理が始まりますから、しばらくの間、化学をやる余裕は無いのです。そして、高3になってまた化学をやるころには理論の部分もすっかり忘れて初めからということになる可能性もあります。というか、そうした人を沢山見てきました。数Ⅲや英語をやりながら、物理、化学の2教科をものにするのはなかなか大変なのです。

一方、私立中高一貫校では、数学が公立より約1年分速く進んでいます。これは20年前の公立と同じ速さです。その結果、高1で物理も化学も学習することができます。

その差が、大学合格実績に如実にあらわれています。