2011年3月27日日曜日

覚醒

新年に一族が集まって食事をしていた時、26歳の従兄弟が一言。
「この歳になってやっと真面目に努力する事を知ったよ。」
社会に出て必死に勉強して力を付けていく同期を見て触発されたそうで、今の日々は忙しいけれども、目的意識があり充実しているとのことです。


これは僕の個人的な理論ですが、人は「環境に対して自己の存在のありかを見つける」事で、劇的に成長を遂げる事が出来ると考えています。これを僕は覚醒と呼んでいます。
そのきっかけは多様で、個人差があります。早い人は小学生や中学生からガンガン伸びていきますし、従兄弟の様に成人してから気付く事もあるでしょう。それは多くの場合、人との出会いや触れ合いがそれを呼び覚ますのではないかと思います。


しかし出会いが人を醒ます時もあれば、出会いが人を眠らせる事もあるのです。
僕が高校に入って直ぐ、将来に対する三者面談がありました。数学も国語も取り立てて得意とは思ってなかった僕は、発音なら比較優位かなと思い「通訳になりたい」と書きました。
すると母や先生は「通訳では食べていけない」「工学(当時は???な語句)系を目指したらどうか」等とまるで英語自体を否定するような物言いでした。
「存在のありか」を見失った僕に、英語に対するモチベーションは残っていませんでした。


出会いが人を変える。素晴らしい事です。
しかし今年もこうして、思慮欠落な大人のエゴにより、ある若者の夢が凍結されてしまうのかなと思うと、悲しいと同時に歯がゆくて仕方がありません。

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