2011年6月2日木曜日

日本語の助動詞

先週中学3年生に国語の授業をしていました。
テスト範囲に助動詞があったので、復習で問題を解かせていたのですが、あまりにもみんなできないので、もう一度助動詞について説明をしたのです。

突然ですが、問題を一つ。


例題)以下の文章の助動詞を3つ答えなさい

私にはとてもそんなことは信じられません。



さて、この文章には助動詞が3つ含まれているのですが、分かりますか?

僕は中学時代、正直国語の文法は苦手でした。
上の例題ももしかしたら解けなかったかもしれません。

ですが、中学生にいかに分かりやすく教えるかを考えているうちに自分でも理解できました。

そもそも、助動詞というのは言葉のとおり動詞を助けるものなので、動詞(用言)に含まれます。
例文で言うと、「信じられません。」が動詞(用言)ですよね。
この中に3つ助動詞があるわけです。

先に正解を言うと、「られ」、「ませ」、「ん」、の3つです。

この3つの言葉は元々の動詞である、「信じる」を助けています。
まとめてしまうと分かりづらいので、一つ一つ説明してみます。

信じる + られ(可能)  =  信じられる
信じる + ます(丁寧)  =  信じます
信じる + ない(否定・打消)  =  信じない

こう考えると分かりやすいですよね。
それぞれの助動詞が意味を付加していることが分かります。

信じられる  +  ます(丁寧)    =  信じられます
信じます   + ない(否定・打消)  =  信じません
信じない   +   られ(可能)    =  信じられない

信じられます + ない(否定・打消)  =  信じられません
信じません   +    られ(可能)  =  信じられません
信じられない  +   ます(丁寧)   =  信じられません


こういったことを黒板に書いて、初めて自分の頭も整理されました。

日本語でも文法を改めて考えると、それほど深く考えずに使っていますよね。
これが英語になったらどうなるか、と。

文法って本来は言葉を覚えるための先人の知恵だったと思うのです。
明治維新の後に英語を勉強しなければならない状況になって、最初は当然、文法なんていうまとまったものはなく、ひたすら英語の文章を読んだと思うのです。

そのなかで、「ん、このcanってのは動詞の前にくっついて、”可能”の意味を与えているなぁ」とか、「どうも”to”に動詞がくっつくと動詞じゃない役割を果たすようになっているなぁ」とか、傾向に気づいた人がいるはずなのです。

で、それを英語をマスターするための近道として、文法としてまとめた人がいる、と。

日本語だって、文法を改めて見てみると、「そんなに意識して使っていないよ~。なんとなくなんだけど。」と思うことがあると思うのです。
言われてみて、そういえばそうだなぁと思うとか。

そういう意味でいくと、本来は英語を読んだり話したりするための近道としての文法だったはずが、文法を覚えることが目的となってしまったことに問題があるのかもしれないですねぇ。
だって日本語にしたって、文法から覚えさせられたらなかなか話せないですよ、それは。


なんてことを、国語の助動詞を教えたあとに思ったわけでした。

なんか脱線したままですけど、この辺で。。(笑)

3 件のコメント:

  1. 道があるから、その道を歩くのか(文法が先で言葉が後)、私の歩いた後に道ができるのか(言葉が先で文法が後)ということでしょうか。言語発生の初期においては歩いた後に道ができ、今となっては、道の上を歩いていく。もっとも、道を外れる人は何時如何なる時代にもいるわけですが。jyuku-cho

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  2. 目的と手段が逆転しているのではないかと思うのです。

    今の時代の英語教育としては、英語を話すことが目的で、英文法は手段であるべきだと思うのですが、最近は手段をマスターすることに懸命になりすぎている気がします。
    読むことが目的なら英文法から入ることも多少理解できますけど。

    英文法のテストをして○×をつける延長に、生徒の中で英文法を間違えてはいけないという意識が大きくなり過ぎ、英語を使う際に萎縮してしまうのでは本末転倒なのではないか、と思います。

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  3. 英語を受験科目からはずすということを考えても良いと思います。
    かつて多摩大学学長だったグレゴリー・クラーク氏は英語の試験は百害あって一利無しといって、受験科目から英語を無くしました。東大後期のように英語を重視しすぎると唯の帰国子女枠になってしまいます。間違えを気にしないようにすることができれば(つまり、英語の点数をつけなければ)日本人の英語力はずっと向上するかもしれません。

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