2010年9月7日火曜日

事務連絡。今週木曜日。悠々会やります。

今週木曜日。夜、9時半。悠々会やります。 

2010年9月5日日曜日

”先生!問題の意味が分かりません”

英検のホームページに以下のような注意書きが出ていました。その一部を掲載しますと。

”最近、年少者の受験の増加に伴い、下記のような状況が増え、試験の進行および他の受験者に迷惑がかかるようなケースが出てきております。保護者の皆様には、小さなお子様が受験される場合には、以下の点にご留意いただくとともに、ご了承の上お申し込みください。

<最近の主な事例>
1.解答用紙の記入欄に、生年月日や名前(漢字)、会場名等が書けない。
2.問題の指示文が読めない。
3.試験中に飽きてしまって、鉛筆を転がしたり騒いだりする。
•上記1に関しては、解答用紙の見本で、事前にご家庭で練習していただくか、もしくは当日必要事項を記入したコピーを持たせるなどしてください。
•上記2に関しては、お申し込みをご遠慮いただきたいと存じます。
•上記3に関しては、他の受験者の迷惑となりますので、退室(失格)していただく場合があります。”

小学生で2級に受かる子もいて、すごい!と思っていたのですが、一方でこうしたことも起こっているのですね。なんとなくその様子が想像できます。年少者ゆえ仕様がないとも言えるのですが、最も重要で基本的な事柄が忘れられているという思いもします。それは、子ども自身でなく、その親がです。何かに熱心なあまり、視野が狭くなっている。あるいは、余裕がなくなっているのかもしれません。

さて、1と3はさすがに中学生になると問題になりませんが、2番は違います。最近、塾で英検の練習問題を解いたところ、問題の指示文についての質問がありました。単語を並び替えた後、指示された部分の単語の番号をマークするのもです。あえて、その質問には答えませんでした。読めば分かることだからです。

設問が少し複雑になると、その内容が把握できない子供が増えている気がします。読んで考える前に、誰かが教えてしまっているからかもしれません。

2010年9月4日土曜日

遅読の薦め

本の読み方が変わってきているのかな?と思うことがよくあります。

情報化社会の発達の中で、本という情報源もそれに無関係ではいられないからでしょう。大量の情報を効率良く身につける。そんな読みが主流になってきているようです。書店に山済みになっている「速読」の方法をあれこれ書いてあるものを立ち読みすると、「こんな方法で本を読むなら、読まないほうがましだ」と思ってしまいます。

毎日最低一冊の本を読み、年間に数百冊の本を読むと豪語する知り合いがいます。いったいどんな本を読んでいるのか訝しくなります。

2~3行ごとに本を伏せて、その内容を考えなければならない種類の本があります。数ページ読むのに1時間かかる文もあります。それは苦痛ではなく、楽しみです。文章を味わう。行間を読む。眼光紙背に徹す。本が未だとても貴重品であった頃の読み方です。

かつて、ある出版社のTVコマーシャルでこんな歌が歌われました。

    一冊の本があれば       
    地球の裏側に      旅することもできる
    知らない世界へ     向かって         
    旅立とう!  

問題は伏せたままの本がそのまま読まれなくなることです。

2010年9月2日木曜日

全てを認める

子供の頃はよく弁解を言っていたものです。
何か怒られると「だって、・・・・・だもん」としょっちゅう言っていました。
「理屈ばかり言っていないで・・・」と叱られると「はい・・・」と返事をして、心の中で「でも・・・・だから」と言い訳をしていたように思います。

立場が変わって生徒たちを叱ったり、意見を言ったりするようになりました。やはりいろいろな言い訳を聞くことになります。そして、言い訳を言っているようじゃだめだなと本当に思うようになりました。

「宿題を忘れたのは、・・・・のせいだ」 
「成績が悪いのは・・・・だったからだ」
「遅刻したのは・・・・のためだから」

確かに、その通りなのでしょう。宿題を忘れたのにも、成績が悪いのにも、遅刻にもそれなりの弁解や言い訳がある。その言い訳・弁解には道理もあれば、事情もある。
しかし、その事情に自分自身が納得していると、何かを変えることはできない。言い訳を自分の外部に作っている限り、人は成長しない。そう思うようになりました。

一度、謙虚に全てを認めてみましょう。その段階でもう何かが変わっているはずです。

2010年9月1日水曜日

読書感想文「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」

社会人の中には、ピーター・ドラッカーの本を一度は手にとった方が結構いることでしょう。
ご多分にもれず僕も、社会人2年目の頃にドラッカーの「プロフェッショナルの条件」という本を買ったのですが、内容が難しく、半分も読まないうちに読むのを止めてしまいました。
ドラッカーの本は普遍性が高く、内容もものすごく濃いのですが、内容を理解し、自分の仕事に応用していくことはなかなか難しいです。
そのため、ドラッカーの本を読んで仕事に応用し成功した人、例えばユニクロの柳井さんのような方の本が売れるわけですね。

と、前置きはこの辺にして、読んでみた感想を。

ドラッカーの言っていることを物語タッチで読み手に伝えるという構成は個人的には面白いと感じた。
というか、そもそも僕は物語タッチのビジネス書が好きだ。
こういったジャンルの本にとって肝心なことは、読んだ人が本家であるドラッカーの言っていることの1%でも理解して、自分の人生、仕事に活かせる内容になっているかということだと思う。
その点で、僕がこの本を読んで思ったことや、今後取り組んでみたいと思ったことを書いてみよう。

まず印象に残っている文章に、以下の二点がある。
・マネージャーは専門家の知識を伝える役割を果たす
・専門家はマネージャーの上司足り得る

悠々館の塾長は"専門家"だ。"職人"と言ってもいいかもしれない。
生徒を育てることに関して情熱を注いでいて、教える技術はきっとどこぞの予備校の講師よりも高いと思うものの、マネジメントはあまり得意ではないように思えた。
先に断っておくと、僕は塾長を心から尊敬しているし、今の僕があるのは塾長のおかげだと思っているし、何一つ批判する気持ちはない。
役割の問題を言っているのである。

僕は塾長の元生徒であり現在の立場としては部下に当たるわけだけれども、講師全員の力を束ねて悠々館を良い方向に持って行きたいと思っていた。
つまり、マネージャ的な役割を演じたいと思っていたのだ。
そう思っていたところにこの本でドラッカーの考え方に触れて非常に共感した。
「そうか、専門家がマネージャの上司というのはやはりあり得るんだな、と。」

現在の悠々館の状況を考えると、それが自分に与えられた役割であり、かつ、自分が成長していきたい分野であると感じた。

もう一つドラッカーの言っていることの中で、最も大事なことについて触れておきたい。
「事業の目的は何か?」ということだ。

この本の中では、高校野球の目的を「感動を与えること」と定義し、目標を「甲子園に出場すること」と置く。
甲子園に出場することは感動を与えるための手段ということだ。

では、悠々館、ひいては塾という事業の目的は何だろうか?
しばらく考えて僕は、「人を育てること」だと思った。
もう少し広げると、「自信をつけさせること」、「人を成長させること」だ。
「勉強ができるようになること」や、「テストの点数を上げること」は、目標であって目的ではないのではないか。
テストで良い点を取れれば自信になるし、次の努力につながるので、良いことだ。
だが、「人を育てる」という目的を果たす方法を考えると、他にもやれることが見えてくる気がする。

このあたりは生徒の親御さんや、講師それぞれ考え方が違うところだと思うし、学校と塾の住み分けも考えなければならないので難しいところだが、例えばみんなでキャンプに行くようなことをしてみたい。
また、塾の先輩が後輩に勉強を教えるような交流がもっと行われるようにしていきたい。
人にものを教えたことがある人は賛成してくれると思うのだが、教えることはその分野の理解にものすごく役に立つのだ。
実は講師陣は教えながら自分もレベルアップしているのである。
このことをもう少し積極的に塾の仕組みに組み込んでいけたら、何か面白いことが起こるんじゃないかと密かに思っていたりするのだが、これはもう少し将来的に。。。


とりあえず、この本を読んだ後に、思わずドラッカーの「マネジメント」を買ってしまったという点で、この本が僕に与えた影響は大きいと言えるし、僕にとっては良書だったということだろう。
大学生~社会人若手あたりが読むべき本だと思う。

2010年8月30日月曜日

夏期講習終了です。

夏期講習中ブログの更新が殆どできませんでした。忙しさと暑さのせいだと言い訳をしておきます。
それにしても暑い日が続きます。熱射病による死者も相当数でているようです。

暑さによる死というのが問題になるのはそんなに古い話ではないように思います。今から、30年も前、初めてインドに行きました。まさに圧倒的な暑さで、一日に10数本のコーラ(ケンパ・コーラというやつです)を飲みました。飲んだ途端に喉が乾く。そんな暑さでした。その夏インドでは”熱波”で数千人の死者が出ていました。”寒波”という言葉は普通でしたが、”熱波”という表現は当時日本で聞いた記憶はありません。

私が泊まっていたニューデリーの安宿の隣で、灼熱の太陽の下、まだ小学低学年程度の子供が日干し煉瓦を担いで僅かな金を得るために働いていました。何日かすると”ナマステ”と挨拶をするようになりました。ベナレスに移動するため宿を出るとき、近くで買ったマンゴーを彼にプレゼントしました。不意をつかれて、驚く少年の目を今でも良く覚えています。彼らに十分な教育が与えられれば・・・と思いながらオールドデリーの駅に向かったものです。

数十年がたち、インドは今や世界に冠たるID国家になっています。
今日のように、空全体が晴れ渡った暑い日。外に出た瞬間、インドが蘇ることがあります。レンガを担いでいた少年や、食べ物欲しさにぼくの後を数百メートル追ってきた少女や、飲み干したコーラのビンに残った最後の1滴を飲もうと寄ってきた子供たちや、その他、言葉にできないほどの境遇で生きている子供たち、彼らに教育が与えられたのだろうか・・・

まだ、煉瓦を担いでいるような気がして、気持ちが沈みます。

2010年8月23日月曜日

ケアレスミスを無くすには

ケアレスミスを無くすにはどうしたらよいかという相談を時々受けます。技術的なことを幾つか挙げることはできるのですが、決定的なことはなかなか言えません。答えに窮して『人間的な成長を待つしかないですね』ということもあります。

口酸っぱくミスとその原因を指摘し続けてもたいして解決になりません。そのミスが数学に関してのみ起こるというのなら、それには対処法があります。しかし、ケアレスミスを沢山する人は他の教科でも同様にしますし、勉強以外でもあれこれとやっているはずです。実際にテストでケアレスミスをする人は、日常生活でも同様のミスを繰り返しています。つまり、日常生活の問題が勉強に投影されているに過ぎないのです。

本当にこうしたミスをなくしたいなら、日常生活の改善から始めなければなりません。うっかりする・・・という、誰にでもあることに厳しく対応できるかどうかです。新幹線のパンダグラフのボルトを閉め忘れたことによる事故が昨年ありました。新聞の全面広告でイベントの日時をうっかり間違えて、巨額の被害が出たという話もあります。それらに比べると勉強のミスはずっと実害が少ないといえるかもしれません。だから、繰り返すのかもしれませんが。

日常のミスがある限り、テストのミスもある。当然のことです。