2011年9月13日火曜日

密度=?

昨日、「密度ってどうやって求めるんだっけ?」と聞いた生徒がいました。
突然ですが問題です。密度の式はなんでしょう?体積と質量を使います。
そんなの忘れたという人が多いでしょうか。
答えは【密度=質量/体積】です。
割り算なのでイメージしにくくて覚えにくいですね。ではこれでどうでしょう。


【質量=体積×密度】
質量は簡単に言えば”モノがどれだけ重いか”です。その重みは
・体積(ものの大きさ)が大きいほど重いイメージ
・密度(中身)が詰まってれば詰まってるほど重いイメージ
です。大きくて詰まってるモノの方が重いでしょう。だから割り算ではなく掛け算です。この式だけ覚えておけば、移行するだけで密度や体積も計算することが出来ます。


公式には丸覚えした方が良い(解の公式など)ものと意味を考えて覚えるべきものがあります。
考え方は色々ありますし、厳密でなくてもいいです。自分が納得できる考え方を見つけること、その過程もまた大切です。


ちなみに
「足し算じゃダメなの?」
「えぇ!?(←そこまで考えたことなかった)・・・まぁそこは割り切って覚えてくれよ。」
ここで「割ってないし」とかいう反応を期待した後、それが大分おっさん臭い発想なことに気づき少し落ち込んだ瞬間でした。。。

2011年9月11日日曜日

ベクレルとシーベルト

福島原発の事故以来ベクレルとシーベルトという単位はとても有名になりました。

今はそれに慣れてしまったのですが、かつてはマイクロマイクロキュリーというものを使っていたはずです。ここ20年程度の間に、いろいろな単位が変更されてきました。

最も影響の大きかったものは気圧の単位(パスカル、ヘクトパスカル)です。以前はミリバールが主でしたが、もはや死後となりました。同様に、中学の理科からg重(gW)が無くなり、N(ニュートン)が導入されました。カロリー(cal)もJ(ジュール)にその地位を少しずつ奪われてきています。

理由はNを中心とした単位の体系に統一するという考え方があるからです。そして、一方では、オングストローム(Å)やダイン(dyn)のように、学校教育の場から別の事情(簡単にするため?)で滅んだものもあります。

かつて、尺貫法を廃止することに躍起になっていた時代がありました。それを使っていると世界に遅れをとるといわんばかりでした。長くそれを使っている職人たちからの反発も強かったようです。

こうして、単位は私たちの日常から少しずつ離れていきました。シーベルトにいたっては最早、実感不能な魔物のようです。

2011年9月10日土曜日

高校期末テスト

高校のテスト対策授業をこの1週間していました。

テスト終了後の12時頃から夕方7時くらいまでほぼ休憩無しでの授業です。終わったときにはもうやることは無いと思えます。『満点取って来いよ』と言って、生徒たちを帰します。

昨日はα、βと2回ある数学のテストのβのテスト対策でした。その際、生徒が持ってきたαの問題を見て、勉強の方向に誤りがなかったかの確認をします。

全19題。90分のテストでは多少時間が厳しかった者もいたかもしれません。出題は完璧に予想通り、全て一瞬にして解法が分かるものばかりでした。塾でも全て扱っています。

この高校は旧学区最難関校なので以前は最後の数題は少し考えるものもありました。しかし、最近そのような問題に遭遇することはありません。全てお馴染の標準問題です。それでも、高得点がポンポン出てくるわけではありません。

能力というより、勉強量の多寡がものをいう種類のテストです。

点数が伸びなかった人には 『勉強不足!』の一言を投げかけざるをえません。

物理おたく

授業が終わった後、八木先生が『天体って一度理解すると、どんな問題でも絶対に解ける。いいですねえ』と言っていました。

物理にもそれと似たところがあります。数学の素養がある人が、ある単元に限って勉強したとします。1週間あればその単元の基礎を2日で学び、次の3日で中堅大学の入試問題を解き、次の2日で難関から最難関大学の入試問題を解くということがあり得ます。

そのどれもが同じ考え方が貫かれていること、そして曖昧な部分が殆ど無いことが理由です。それが分かるとこの教科の楽しさと偉大さに気づくはずです。

こうして、物理おたくが一人誕生します。

2011年9月4日日曜日

新学期

 中3はさすがに臨戦態勢に入ってきました。その中に夏休みで驚くほど学力を伸長させたものもいます。毎年そうした生徒はいるのですが、その伸びは感動的ですらあります。周囲の予想を遥かに超した成長をみせます。模試で5割ちょっとだった数学が9割強に伸びていました。そうした場合、本人の内部で何かが変化していることがわかります。学習態度が明らかに変わっているからです。他教科が同じように伸びてくるのは時間の問題です。彼は勉強の何たるかをつかみかけているのです。

 一方、中2はまだまだです。受験が近づくというような外的刺激がないとなかなか自分を変えられません。公立中の場合、ほとんどの生徒は受験をくぐっていないので、現実に対峙する経験を持っていません。『泣いても叫んでも、だめなものはだめだ』という現実に向かい合った経験がないのです。現在の自分が近い将来(たった、1年半後)の結果に決定的に関与しているということが実感できないのです。昨日の授業の後、その話を生徒に長々としておきました。外は台風の強風と豪雨。いくらか伝わったかな。

2011年9月3日土曜日

予行演習

単語を覚えたり、歴史を覚えたり、記憶は勉強のかなりの部分を占めています。

それを覚えるための技術も、脳科学の成果もあり、昔とは随分変わってきました。単語一つを考えても、様々な単語帳が様々な方法を提案し、なるほどと唸るものもあります。ところが、それを使っても必ずしも良好な結果が得られるわけではありません。どのような優れた方法でも、本でも、最後の部分は【覚える】という基本的な行為を前提にしています。その部分に問題がある人が増えているように感じます。

appleという単語を覚えるとします。その文字が目に入り → 網膜に映る → 神経を経由し → 脳に至る。そんな経路を情報が伝わっていくうちに、電気信号がどんどん微弱になっていく。脳に着くころにはほとんど無くなっている。そういう気がします。

その信号を強くする部分は気持ちなのではないか?昨日、三角形の相似条件3つを確認しました。「ちゃんと覚えていない人は残って覚えていくことにしよう」というと、皆あっという間に覚えられます。さっきまで、何度も間違えた人もです。これを覚えなければならないのだという強い気持ち、そこが欠けているようです。といっても、当人たちは覚える気があるというに違いありませんし、事実覚えようとしてもいるのです。ただ、傍から見ているとなんとも切迫感がないのです。

一度で身につけることは一度で身につける。そういう体験が少なすぎるのかもしれません。現代では、大抵のことはたくさんの練習を経て身につけるようになっています。学校でも家庭でも、予行演習を沢山して子供を育てていきます。そして、そのうち自然にできるようになると考えているふしもあります。

学校教育は延々と続く予行演習だというわけです。


トロンはどうなったのか?

なぜか『トロン』のことを思い出しました。

東大の坂村氏が提案した壮大なコンピュータシステムです。それを利用したものが全国の小学校で使われるはずでした。それ以外にも社会のあらゆるところで活用される可能性を持っているように思えました。

突然のそのプロジェクトが立ち消えになったのは、日米貿易摩擦で非関税障壁の1つとして、アメリカがトロンプロジェクトを批判したからだったように覚えています。

小学校でトロンが使われていたら、今の社会はどう変わっていたのでしょう。ウィンドウズなんか誰も使っていなかったかもしれません。残念な気がします。

この世の中では、必ずしも良いものが、採用されるわけではない。ということを再認識することになりました。ビデオにおけるVHSとβ(ソニーの開発したβは滅んでしまいます)のように。

そんなことを考えながら今日もウィンドウズの世話になっています。