月に一度 YouYouKanNews という小さな新聞を月謝袋に入れて配布しています。
小学生が読むことも考慮して、全ての漢字にルビ(読み仮名)を振っていた時期があります。内容もできるだけ簡単な言葉や表現にしていました。その方が読みやすいからです。
5~6年前からそれをやめることにしました。幾つか理由があります。
全ての漢字にルビを振るとかえって読みづらいということ。限られた紙面にもかかわらず、その約4分の1程度がルビのせいで減ってしまうということ。特に、後者の理由は決定的でした。
さて、近隣の中学校の数学の問題は全ての漢字にルビが振ってあります。小学低学年レベルの漢字(つまり、どんなに易しい漢字)にもルビが振ってあります。使っているソフトの関係なのか。漢字に関係なく、数学の力を知りたいからなのか。理由は分かりません。
問題は必ず、下のように始まります。
つぎ と こた
次 の問いに答えなさい
き かんじ よ のうりょくじょちょう そがい
気になるのは、それが漢字を読む能力を助長するのか、阻害するのかです。
2011年1月14日金曜日
後期選抜まであと・・・
高校入試が直前に迫ってきました。
中3のある生徒と『英語が45点を越したら、今日の授業は止めにしよう』と約束して、過去問を解き始めました。
一回目、二回目と惜しいところで届きません。三回目、四回目。少しずつ点が落ちてきました。その頃には、私たちは意地でやっているようなものでした。五回目、六回目。疲労してきたせいか、点は伸びません。七回目、ぎりぎりで届きません。
時間もたいへん長くなり、疲労の色も見えていたので、目標を達成できずに止めることにしました。本心は3~4回で目標を達成し、さっさと他の教科をやるつもりだったのですが・・・・。『達成感を味あわせよう』と思って、『疲労感を味あわせてしまいました』
さて、帰り際にその生徒が『家でやるので、解答用紙をコピーしてください』と言ってきました。そして、コピーした解答用紙を20年分の過去問と一緒に鞄に詰めて帰りました。
どうか、20年分やる前に目標達成できますように。
中3のある生徒と『英語が45点を越したら、今日の授業は止めにしよう』と約束して、過去問を解き始めました。
一回目、二回目と惜しいところで届きません。三回目、四回目。少しずつ点が落ちてきました。その頃には、私たちは意地でやっているようなものでした。五回目、六回目。疲労してきたせいか、点は伸びません。七回目、ぎりぎりで届きません。
時間もたいへん長くなり、疲労の色も見えていたので、目標を達成できずに止めることにしました。本心は3~4回で目標を達成し、さっさと他の教科をやるつもりだったのですが・・・・。『達成感を味あわせよう』と思って、『疲労感を味あわせてしまいました』
さて、帰り際にその生徒が『家でやるので、解答用紙をコピーしてください』と言ってきました。そして、コピーした解答用紙を20年分の過去問と一緒に鞄に詰めて帰りました。
どうか、20年分やる前に目標達成できますように。
もう差はついている
日本中に『伊達直人』が現れ、ランドセル等のプレゼントが相次いでいます。TVでそれを見ると目頭が熱くなります。
何と言ってもランドセルは特別です。それを背負った新小学生は『ピカピカの一年生』です。体に不釣合いな大きなランドセルを背負った新入生を見ると、微笑ましいと同時に、彼ら(彼女ら)の未来が等しく洋々たるものであることを願いたい気持ちになります。
一方、新中学生です。学力という一点に関して、その差は圧倒的です。
公立中学に進学する場合、受験をくぐるわけではないので、学力は明確に把握できていません。小学校でするテストは難しいものではなく、学力の差を判断する基準にはなりません。そこで、本人にも、その周辺にも勘違いが出てきます。『ぼくはできる。私はできる』と。
中一の夏休みまでは易しいことを時間をかけてやっていますから、その差に気づきません。『あれ、おかしいなあ』。『こんなはずではないのに』と考える人が増えてくるのは夏休み過ぎです。『急に難しくなった中学の勉強についていけなくなった』という考えもできますが、実際は小学校のときに小さく見えた差が明確になった場合が多いようです。
例えば、中1数学の最初の難関は『正の数・負の数』です。しかしこれは教え方を過たなければ、案外簡単?に身につきます。問題はそれを分数や小数のレベルで自由にできるかです。(-1)-5と同様に、(-2/3)-4ができるかどうかです。こうした部分は小学校でのトレーニングの差が出てくるところです。そして、その後も様々な局面でその差が顕在化してくることになります。
残念ながら、スタートの段階で、かなり大きな差がついているのです。
何と言ってもランドセルは特別です。それを背負った新小学生は『ピカピカの一年生』です。体に不釣合いな大きなランドセルを背負った新入生を見ると、微笑ましいと同時に、彼ら(彼女ら)の未来が等しく洋々たるものであることを願いたい気持ちになります。
一方、新中学生です。学力という一点に関して、その差は圧倒的です。
公立中学に進学する場合、受験をくぐるわけではないので、学力は明確に把握できていません。小学校でするテストは難しいものではなく、学力の差を判断する基準にはなりません。そこで、本人にも、その周辺にも勘違いが出てきます。『ぼくはできる。私はできる』と。
中一の夏休みまでは易しいことを時間をかけてやっていますから、その差に気づきません。『あれ、おかしいなあ』。『こんなはずではないのに』と考える人が増えてくるのは夏休み過ぎです。『急に難しくなった中学の勉強についていけなくなった』という考えもできますが、実際は小学校のときに小さく見えた差が明確になった場合が多いようです。
例えば、中1数学の最初の難関は『正の数・負の数』です。しかしこれは教え方を過たなければ、案外簡単?に身につきます。問題はそれを分数や小数のレベルで自由にできるかです。(-1)-5と同様に、(-2/3)-4ができるかどうかです。こうした部分は小学校でのトレーニングの差が出てくるところです。そして、その後も様々な局面でその差が顕在化してくることになります。
残念ながら、スタートの段階で、かなり大きな差がついているのです。
2011年1月12日水曜日
深夜の雪
寒い日が続きます。一昨日は夜半から雪がちらつき、それをしばらく見入っていました。
『太郎を眠らせ 太郎の家に雪降りつむ
『次郎を眠らせ 次郎の家に雪降りつむ』
(三好達治)
おそらく小学校のときに、この詩を読んだのではないかと思います。そのとき、この詩が好きというわけではありませんでした。とても普通の詩だと思ったことだけをおぼえています。
私は石川県の金沢にある小学校に通っていました。冬になると、日本海側の空一面に雪を孕んだ重い雲が垂れ込めていました。冷たい冬の空気と、薄暗く低い空。いくらか陰鬱な感覚。それが今思い出す。北陸の冬です。作家泉鏡花や詩人室生犀星の作品に通奏低音として流れるものは金沢の冬なのでしょう。
深夜に雪を見ると、当時の感覚が一瞬に蘇ってきます。そして、頭の中に、『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ、次郎を・・・』が流れてきます。ああ、良い詩だなあと思います。この詩が好きになるために沢山の時間が必要だったんだなと感じます。長い時間の中で熟成したものがあるのでしょう。
学校教育(特に小学校)ではできるだけ古典的なものを沢山身につけられると良いと思います。そのとき、わかるようなものである必要はありません。いつかそれが時熟し、開花するかもしれません。分かることばかりを気にするより、たとえ分からなくても、質の高い良いものを沢山与える。そうしたやり方あるような気がします。
『太郎を眠らせ 太郎の家に雪降りつむ
『次郎を眠らせ 次郎の家に雪降りつむ』
(三好達治)
おそらく小学校のときに、この詩を読んだのではないかと思います。そのとき、この詩が好きというわけではありませんでした。とても普通の詩だと思ったことだけをおぼえています。
私は石川県の金沢にある小学校に通っていました。冬になると、日本海側の空一面に雪を孕んだ重い雲が垂れ込めていました。冷たい冬の空気と、薄暗く低い空。いくらか陰鬱な感覚。それが今思い出す。北陸の冬です。作家泉鏡花や詩人室生犀星の作品に通奏低音として流れるものは金沢の冬なのでしょう。
深夜に雪を見ると、当時の感覚が一瞬に蘇ってきます。そして、頭の中に、『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ、次郎を・・・』が流れてきます。ああ、良い詩だなあと思います。この詩が好きになるために沢山の時間が必要だったんだなと感じます。長い時間の中で熟成したものがあるのでしょう。
学校教育(特に小学校)ではできるだけ古典的なものを沢山身につけられると良いと思います。そのとき、わかるようなものである必要はありません。いつかそれが時熟し、開花するかもしれません。分かることばかりを気にするより、たとえ分からなくても、質の高い良いものを沢山与える。そうしたやり方あるような気がします。
2011年1月9日日曜日
受験始まる
一部の中学入試が始まり、今週末にセンター試験、2週間後に公立高校前期選抜。そして、2月から一斉に中、高、大の受験が始まります。
生徒の受験は自分自身の受験とたいして変わりません。自分自身の受験よりずっと胃が痛くなることもあります。その一番の理由は彼ら、彼女らの努力を知っているからです。
『努力は報われるべきだ』と思います。実際、多くの場合その努力は報われるのですが、そうでない場合もあります。自分の無力を感じる瞬間です。彼らの努力を成果として結実することができなかったという悔恨を抱きます。
また、その時期が巡ってきました。長時間塾で学んでいる生徒の帰り際、『頑張れ、きっと良いことあるぞ!』と声をかけ。それを祈ります。
努力が報われないことはあります。しかし、努力なく成果を得る人間がほとんどいないことも事実です。
『努力は報われなければならない』 それは、私のささやかな信念です。
遅くなりました。今年もよろしくお願いします。
生徒の受験は自分自身の受験とたいして変わりません。自分自身の受験よりずっと胃が痛くなることもあります。その一番の理由は彼ら、彼女らの努力を知っているからです。
『努力は報われるべきだ』と思います。実際、多くの場合その努力は報われるのですが、そうでない場合もあります。自分の無力を感じる瞬間です。彼らの努力を成果として結実することができなかったという悔恨を抱きます。
また、その時期が巡ってきました。長時間塾で学んでいる生徒の帰り際、『頑張れ、きっと良いことあるぞ!』と声をかけ。それを祈ります。
努力が報われないことはあります。しかし、努力なく成果を得る人間がほとんどいないことも事実です。
『努力は報われなければならない』 それは、私のささやかな信念です。
遅くなりました。今年もよろしくお願いします。
2011年1月7日金曜日
しなければならないことをどうやって好きになるか
昨日の授業の際に、中学生に国語の問題を解かせていたのですが、あまり点数が良くなかったので、なんでだろうという話をいろいろとしました。
その中学生曰く、どうしても国語の勉強をしていると眠くなってしまうそうです。
そして、眠いのであまり集中できず、問題も適当に答えてしまった、と。
その点は自分でも自覚していて、だから結果が悪かったこともある程度予想通りだそうなのです。
で、僕はテストの時も国語は眠くなっちゃうのかな?と聞いてみたのですが、テストの時は眠くならないそうです。
ですが、普段の勉強の時は眠くなるらしいです。
思えば僕も学生の頃は、嫌いな科目、僕の場合は社会の授業中は眠くなったなぁ、と振り返ってみました。
そしてテストの時はやはりいい点取りたいので、眠くはならずに何とか頑張ったように思います。
ですが、結果として最後まで他の科目よりも社会の成績は悪いままでした。
その後、高校受験の時や、大学受験の時は嫌いな科目でもやるしかないと割り切れたので、そこそこ集中して勉強できるようになりました。
全教科、つまり勉強そのものが好きな人はほとんどいないでしょう。
教科ごとに好き、嫌いがあり、好きな教科を勉強する方が、嫌いな教科を勉強するより集中できるでしょう。
嫌いな教科は何とか勉強しない言い訳を考えてしまう気持ちが分からないでもありません。
そして特に苦手な教科をなんとか勉強させるために、「机に向かって、勉強しろ」と言うことにどの程度の意味があるのか。
「嫌いなことを歯を食いしばってやる」という行為は大人であってもかなり厳しいものです。
そしてそんな話に結構な時間をかけた後、その生徒は残った10分ほどでそこそこの量の英語の問題を解きました。
きっと生徒それぞれ、「なんとかいい点を取りたい」、「そのためにはもっと勉強しなければならない」と言った想いがあるんだろうなぁと思います。
ですが、それでもやはり、目の前の苦痛、困難から逃げてしまうのではないかなぁと。
だからそういった生徒たちも、テスト前はある程度の集中力を発揮するのでしょう。
僕が考えていることは、「結局「勉強しろ」と言って無理矢理勉強させることは意味がない」ということではありません。
そこまで極端ではなくて、もっと良い方法があるのではないかと考えているのです。
よほどの天才を除いて、いやいや勉強し続けた人で、例えば東大に行った人は少ないと思うのです。
どこかで自分なりの楽しみ方というか、やり方を見つけられた人が良い成績を出せたのではないかなと。
いかに「やらされている感」を「やっている感」に変換させられるか。
それが講師の役割ではないかなと。
そしてそれがとても難しいということは分かっています。
だからこそ、大半は「やりなさい」という強制的なアプローチで勉強させようとしてしまうということも。
僕が一つ思っていることは、今回の経験を通して、もっと生徒の意見を聞くことが必要だろうということです。
生徒の悩みを聞き、生徒に自分で考えさせ、僕らはそれを手助けする、というスタンスを取り入れていくということも必要なのではないかと思っています。
難しいことですが、それに生徒とともに挑戦していくことが、教育に携わるものとしての醍醐味の一つだと前向きに考えます。
そんなことを話した後だからか、バリーさんの名言を思い出しました。
今日初めて知ったのですが、バリーさんってピーターパンの著者なんですね。。
幸せの秘訣はやりたいことをするのではなく、やらなければならないことを好きになることである
ジェームス・マシュー・バリー
ということで、今週の詩・句を更新しました。
今年もよろしくお願いいたします。
その中学生曰く、どうしても国語の勉強をしていると眠くなってしまうそうです。
そして、眠いのであまり集中できず、問題も適当に答えてしまった、と。
その点は自分でも自覚していて、だから結果が悪かったこともある程度予想通りだそうなのです。
で、僕はテストの時も国語は眠くなっちゃうのかな?と聞いてみたのですが、テストの時は眠くならないそうです。
ですが、普段の勉強の時は眠くなるらしいです。
思えば僕も学生の頃は、嫌いな科目、僕の場合は社会の授業中は眠くなったなぁ、と振り返ってみました。
そしてテストの時はやはりいい点取りたいので、眠くはならずに何とか頑張ったように思います。
ですが、結果として最後まで他の科目よりも社会の成績は悪いままでした。
その後、高校受験の時や、大学受験の時は嫌いな科目でもやるしかないと割り切れたので、そこそこ集中して勉強できるようになりました。
全教科、つまり勉強そのものが好きな人はほとんどいないでしょう。
教科ごとに好き、嫌いがあり、好きな教科を勉強する方が、嫌いな教科を勉強するより集中できるでしょう。
嫌いな教科は何とか勉強しない言い訳を考えてしまう気持ちが分からないでもありません。
そして特に苦手な教科をなんとか勉強させるために、「机に向かって、勉強しろ」と言うことにどの程度の意味があるのか。
「嫌いなことを歯を食いしばってやる」という行為は大人であってもかなり厳しいものです。
そしてそんな話に結構な時間をかけた後、その生徒は残った10分ほどでそこそこの量の英語の問題を解きました。
きっと生徒それぞれ、「なんとかいい点を取りたい」、「そのためにはもっと勉強しなければならない」と言った想いがあるんだろうなぁと思います。
ですが、それでもやはり、目の前の苦痛、困難から逃げてしまうのではないかなぁと。
だからそういった生徒たちも、テスト前はある程度の集中力を発揮するのでしょう。
僕が考えていることは、「結局「勉強しろ」と言って無理矢理勉強させることは意味がない」ということではありません。
そこまで極端ではなくて、もっと良い方法があるのではないかと考えているのです。
よほどの天才を除いて、いやいや勉強し続けた人で、例えば東大に行った人は少ないと思うのです。
どこかで自分なりの楽しみ方というか、やり方を見つけられた人が良い成績を出せたのではないかなと。
いかに「やらされている感」を「やっている感」に変換させられるか。
それが講師の役割ではないかなと。
そしてそれがとても難しいということは分かっています。
だからこそ、大半は「やりなさい」という強制的なアプローチで勉強させようとしてしまうということも。
僕が一つ思っていることは、今回の経験を通して、もっと生徒の意見を聞くことが必要だろうということです。
生徒の悩みを聞き、生徒に自分で考えさせ、僕らはそれを手助けする、というスタンスを取り入れていくということも必要なのではないかと思っています。
難しいことですが、それに生徒とともに挑戦していくことが、教育に携わるものとしての醍醐味の一つだと前向きに考えます。
そんなことを話した後だからか、バリーさんの名言を思い出しました。
今日初めて知ったのですが、バリーさんってピーターパンの著者なんですね。。
幸せの秘訣はやりたいことをするのではなく、やらなければならないことを好きになることである
ジェームス・マシュー・バリー
ということで、今週の詩・句を更新しました。
今年もよろしくお願いいたします。
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